鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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、注ろうが,法然の大谷廟所を実質的に維持したのは源智であったと考えられるからである。嘉禄の法難によって叡山の衆徒に破却された廟所を再興したのが他ならない源智であった。従って,教義面では信空・隆寛が継承し,法然の遺跡である大谷廟所の実質的な経営は源智が行ったと見て大過あるまい。玉桂寺像の胎内に納入されていた数万人の結縁交名は短期間のうちに作成されなければならず,それは大谷廟所の実質的な経営者にして可能な事業であり,玉桂寺像の発願主が源智であったことを見れば,先の推定は肯首されるだろう。だが,造像募縁は源智一人の所業と見るよりも,源智に従う多数の勧進上人の存在を想定しなくてはなるまい。現段階ではまだ仮定の域を出ないが,私は重源の下で東大寺再興に奔走した勧進聖の多くが建永1年(1206)重源の示寂に伴い,法然教団の中に吸収されていったのではないかと考える。重源の東大寺再興事業は彼の指揮下に組織された勧進聖の活動に負うところが大きいことが従来から指摘されているが,重源没後の彼らの動向については余り論じられることはなく,兵崖.浄土寺の重源像の胎内墨書にある「智阿」など数名にとどまっている。この問題の解明には阿弥号を名のる人々の分布について詳細な分析が必要であるが,東大寺総供養を終えた建仁3年(1203)以降は東大寺から徐々に排除されていったと見られる。この問題については改めて論じることにしたい。が,法然と重源を深く結び付けようとする諸伝記の背後にはこのような動向が存在したのではなかろうか。弁長流の鎮西派と源智流との融合を説くのは,四十八巻伝と九巻伝だけであり,この両本が鎮西流の伝記であることを勘案すると,鎌倉後期の鎮西派が大谷廟所を継承した知恩院への入寺のための論理か隠されていると見なくてはならない。以上の考察において,戒律の問題と大谷廟所の継承問題を指摘したが,従来,鎮西派教団の浄土宗における優位か確立した記念碑的作品として,四十八巻伝の意義が説かれたが,私はそれに加え,本絵伝の成立の意義は鎌倉期の仏教界の様々な動きを“法然”という浄土教家の伝記に収倣させたことにこそあると考えるのである。従って,本絵伝に描かれた源智像は実態を伝えるものではなく,本絵伝とは異なる立場から,t原智によって集約された玉桂寺像の意義を考察されなければならない。(1) 滋賀・阿弥陀寺像にも聖覚や澄憲など約5000名の結縁交名が胎内に納入されていたことが,近時の解体修理で判明しており,本像も興味深い様々な史料を提供して-321-

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