鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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(2) 『玉桂寺阿弥陀如来胎内文書調査報告書」,昭和56年(3) 三宅久雄「玉桂寺阿弥陀如来像とその周辺」(『美術研究』334昭和51年)(5) 『四十八巻伝』巻45-1。41年)(9) 阿川文正「四十八巻伝製作私考」(「浄土学』27,昭和41年)(10) 石田瑞麿「法然の戒律観」(『日本名僧論集第六巻法然』,昭和57年)くれる作品である。(拙稿「西浅井町阿弥陀寺蔵阿弥陀如来立像胎内納入文書について」『滋賀県立琵琶湖文化館研究紀要』第12号,平成6年)伊藤唯真「法然滅後における浄土宗教団の様相」(『浄土宗の成立と展開』第三章第一節,昭和56年)(4) 『選択本顧念仏集』第三章弥陀如来不以余行為往生本願,唯以念仏為往生本願之文。(6) 阿川文正「知恩講私記と法然上人伝に関する諸問題」(『大正大学研究紀要第五十一輯』昭和35年)阿川氏は鎮西派系,西山派系,真宗系に分類されている。(7) 阿川前掲著。(8) 三田全信「法然上人伝の成立史的研究序説」(『法然上人伝の成立史的研究』昭和中野玄三「法然上人絵伝(四十八巻伝)と『早来迎』」(京都国立博物館『知恩院と法然上人絵伝』展図録解説,昭和57年)(11) 法然が天台円頓戒の相承者であり,師叡空より受戒したことは諸伝記に明らかである。(12) 公権力および旧仏教諸宗より法然ないし法然教団に対して行われた“弾圧”は,法然の思想の中に公権力および旧仏教と鋭く結抗する要素があった故ではない。法然において,観想念仏から称名念仏への質的転換が緩やかに行われたと言われるが,必ずしもこの事自体が問題であったのではない。称名念仏者的存在としては,南都仏教界に永観・珍海・明遍らがおり,天台側には良忍か輩出していたが,彼らが法然のように弾圧を受けた事実はなく,また九条兼実をはじめ当該期の公権力内にいた人々も,称名念仏へ傾斜していっだ事実は,法然思想が反社会的な要素を内包するものでなかったことを端的に示すものではあるまいか(『三長記』元久3年2月14日条)。その理由としては専修念仏を説いた結果,無戒破戒の念仏上人が“法然”という核をもつことで一つの組織体を形成したことが,戒壇によって秩序付けられた旧仏教側からの弾圧を受けるに至ったと考えられる。-322-

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