右幅の鉄拐仙人と左幅の蝦驀仙人とを比較すると前者の方が筋肉質の痩せ型で,口の周りや腕,足にトゲのような毛が生えているのに対し,後者は小太りで,特に胸のあたりがふっくらとし,肌はスベスベしている。これは明らかに陽(男・翁)と陰(女・娼)の特徴をあらわしたものではないだろうか。対比的に描いたとも見える瓢籠とニ又大根は男性のシンボルと女身とに解釈できよう。(雪村の「布袋図」で瓢臨が男性のシンボルと見えるような位置に描かれた作品が存在する。)右幅の右端に描かれた樹木は“相生の松”で,これも男女の和合を暗示する。雪村画における落款の位置の特殊性については林進氏が既に指摘するが(注5)'互いに交差し8の字をなす樹幹の脇にしたためられた落款は一種の符牒のように機能している。左幅に描かれた蝦墓はその怪異な風貌から妖術をなすと信じられていた。また月に住むという神話もあり,月蝕は蝦墓の精が月を蝕することによっておきるという説も存在した(注6)。とすれば,左幅は月(陰)の光のもとでの場面ということになるとともに,右幅は日(陽)の出前の薄明の時刻と思われ,谷間に広がる白い霧のようなものは朝謁であると判断できよう。以上のような視点から見れば,本図がもとは衝立の表・裏に描き分けられていたという事実は更に興味深い。日本における蝦墓鉄拐図については(注6)の論考に詳しいが,画壇の主流を占めた狩野派においては,その多くが宋元画の代表作である顔輝筆「蝦墓鉄拐図」(京都知恩寺蔵)とその写しの明兆画に基づくものという。伝永徳筆南禅寺本坊御昼之間「群仙図」や「仙人高士図屏風」中のそれも顔輝の図様に若干の変更を加えたものである。画壇の中枢にある官学派の画家においては,もともとの図様が継承される時,その意味内容に画家独自の解釈が加えられ,新しい作品が生み出される可能性は結果としてi咸じる傾向にある。形態はただ形態として敷き写されるのである。また,雪村には大型の花鳥図として,大和文華館本,ミネアポリス美術館本の六曲一双屏風が存在する。月光のもとで,あるいは薄明の時刻に,動物,魚類,植物(樹木)が思い思いの動・静のポーズをみせるこれらの作品にも雪村流の陰陽思想の断片力ゞ読み取れるかもしれない。さて,同時代の官学派としての永徳との相違点の第二は,一般に認められる桃山時代の山水画の不振という状況に対して(注7)'雪村はあくまで山水画を絵画の第一の分野としていることである。これは『説門弟資』において語られ,また現存作品の数量からも納得される。我々にとって“永徳の山水画”と言ってもにわかには想像でき-327-
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