鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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成6年)であり,現段階における郷目研究の基本カタログとなっている。ないのに対し,雪村においてはく撥墨〉の技法とく灌湘八景〉の主題をキーワードとして直ちにイメージされる作品群が存在する。以上の二項を簡単に整理してみると,雪村の作画には明らかに二面性が抽出できるように思う。すなわち,山水画という障壁画の画題系列のなかでは最も格式が高く,自らの思い入れも強い分野においてはかなり保守的であるのに対し,道釈人物画,花鳥画のようにモチーフ解釈の自由度が大きい分野については自分流のアイデアを生かすという傾向である。全体としては雪村は同時代の官学派よりはるかに豊かな作画上の基盤をもち得たと言い得るであろう。このことにより,結果として現代の我々は雪村に官学派とは異なる印象を強くもつに至っている。雪村画は雪舟以前のより古様な作品からの影響を様々な要素において内在させつつ,個別的に見るならば,地域特性というよりはあくまで個人的資質という意味での個性に多くを負ったものとも考えられる。ここで画家の個性と地域特性とについて考えてみると,雪村の個性は“雪村風”“雪村にならう”などと言う場合,それは多数が撥墨風の山水を指すもののようで(注8)'他のバラエティーに富んだ雪村画すべてを包摂したものではないという点は重要である。先に述べた,雪村の二面性のうち,前記の山水画における保守性のみが雪村風,雪村流として継承されたもののように思われる。雪村の個性は東北地方の文化の代名詞であるかのように称されることも多いが,これについては疑問を感じざるを得ない。雪村と活躍年代が重なる,山形県村山地方出身の郷目貞繁は寒河江大江氏の家臣で武人として軍事に携わったこともあり,いわゆる桃山期の武人画家の系列に属すると判断される。武将絵画は水墨画のもつ深い精神性につなげてイメージされがちであるが,現実には相当に職業的な着色画も各ジャンルにわたって存在している。郷目貞繁もまた,国指定重要文化財の「神馬図」(天童市若松寺永禄61563)をはじめとして,山水,人物,花鳥の各分野に,水墨画のみならず,着色画も多く遺していることから,純粋な水墨画家と見倣すことはできない。更に彼は日本海ルートを通じて直接京都とつながり,雪村とは全く異なる画風形成を行ったことが既に橋本慎司氏によって指摘されている(注9)。昨年タイムリーなかたちで,郷目筆とされる作品を展示,解説したものが『特別企画展図録武人画家郷目右京進貞繁』(最上義光歴史館平ごうのめ-328-

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