10),筆者も妥当な見解とみたいが,更にそれを補強する資料を現段階において見い出墨客たちの紀行文,また信仰•生活のあり様を具体的に伝える地誌等にも瑞巌寺障壁(1772),奥羽を遊歴し『奥濫日録』を遺し,『古画備考』中,吉備幸益の項にも引用東北地方の桃山美術を代表する瑞巌寺障壁画(宮城県宮城郡松島町)の研究の現況は,『國華第995号瑞巌寺障壁画特集』に最も詳細に集成されてある。なかでも雪村画系の末流に位置すると称される吉備幸益の墨絵の間水墨障壁画(「龍虎図」「猪頭和尚図」「寒山拾得図」)について,従来より最大の疑問点として,画面に数箇所認められる移動の跡と他の金碧障壁画の制作年代(元和6■81620■22)から見た時の古様さにより,他所からの搬入の可能性が指摘されている。これについて濱田直嗣氏は瑞巌寺の前身,圃福寺時代の襖絵の転用と推測され(注すことはできなかった。『松島町史資料編II』(注11)における,松島を訪れた文人画に関する記事は散見されるが,これのみでは『國華』誌以上の研究成果を提出するに十分な資料とは言い難い。ただし,江戸時代の絵画関係の資料に見い出した下記の記述は幾つかの点で興味深い。まず,江戸中期の文人画家,中山高陽(享保2〜安永91717■80)は安永元年されている。内,瑞巌寺・観濶亭については,(前略)書,金地着色,花樹・孔雀・文王渭濱等,毎席種々狩野左京筆と云。美観也。堂後墨置,吉備廣盆筆と云。又観るべし。声雅也。それを出,寺中霊殿所々を看る。それより月見御殿を見る。この棲は政宗公豊太閤より賜ふ所也と云。金地設色,床の間檜・横等,その餘襖・壁,雑樹・草花美観也。材も甚美。柱,トガのまさと見ゅ。嘗時有る所に非ず。東に向て小さき憂あり。月の島間より出る,甚麗也と云。床の額に「雨奇睛好」の四字古雅也。外額は「観瀾亭」と有。(後略,傍点引用者,注12)とあり,金碧画については“美観”,水墨画と書については“古雅”と区別して評している点,他の紀行文,地誌にはみられない記述となっている。更に時代は下って,寛政6年(1794)の谷文昴『松島日記』,瑞巌寺の項に,(中略)第五曰黒画局作減筆人物気韻生動可観之画也。(後略)とあり(注13),他の部屋の作品については特にコメントしないのに対し,墨絵の間の人物画のみを高く評価している点は興味深い。各室の筆者については付記した部分でも筆頭に「減筆人物吉備幸益画也」としたためている。現代からみれば,金碧障壁画群が桃山美術を代表するものとして注目されがちだが,文昴の活躍した時代に,また-329-
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