鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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本と雪旦の共作になる。しかし今度の場合は,雪旦の子の雪堤が協力した。刊行は1838(天雪旦の現在残っている最後の挿絵作品は,「嵯峨八景」である。固立国会図書館所蔵のもののみが知られていたが,それも現在は所在不明である。それ故いま国内にはほとんど残っていないと考えざるを得ないが,幸いなことに大英博物館に1本が伝えられている。田喜庵護物の選,普桜園文賀の校,長谷川雪旦雪堤親子の画になるもので,を描いた絵を組み合わせたもので,見開きに2景,右に雪堤の絵を,左に雪旦の絵を配する。色刷りであり刷り物を冊子にしたものと考えられなくもない。雪旦にしても,名所図会の挿絵制作とは違う心構えでもって描いたであろう。雪旦は京都に足を踏み入れているが,はたして嵯峨の風景写生が多く残っていたかどうか。何らかの他の絵師の作品を手がかりに描いたと考えるべきであろう。雪旦は,すでに述べたように,挿絵のほか山水画花鳥画人物画さらには美人画なども描いている。しかしみるべき作品は,名所図会の挿絵や,その独立作品化ともいうべき風俗画や風景画の中にある。隅田川遠望図(佐賀県立博物館蔵)などにみられる広がりと奥行きを感じさせる軽妙な表現は,実景を基礎に置くことで軽薄さから逃れ,庶民に受け入れられる作品を作り上げた。さて,風景版画の分野でよく知られるのは歌川広重である。広重以前には葛飾北斎や昇亭北壽などが出て,優れた作品を生みだしたが,天保年間以降は広重のほぼ独り舞台となる。すでに多くの研究者により指摘されているように,風景画の分野においても広重は北斎など先行する絵師に学んでいる。確かにその影響関係を無視することはできない。しかしそれだけではなく,雪旦などの挿絵絵師の影響もやはり考えるべきであろう。内田実氏の「広重」(岩波書店刊)によれば,広重の作品には種本のあるものがかなりあるという。その種本の代表的なものを挙げてみると,「都名所図会」「摂津名所図会」「東海道名所図会」「江戸名所図会」「山水奇観」「木曽路名所閃会」「日本名山図会」などである。秋里籠嶋の編著にかかるものが多く,雪旦にかかわるものは「江戸名所図会」のみである。全国の風景を描く必要の生じた広重にしてみれば,全国を行脚することが物理的に不可能である以上,何らかの種本を持つことも当然であった。その種本の多くが広重にとって訪れにくい場所を描いた,すなわち江戸から離れた場所や保9)年1月のことである。1841(天保12)年に刊行された。内容は,京都嵯峨を詠んだ和歌と四季の嵯峨の風景-24 -

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