鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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注はるかさかのぼる桃山時代においても,幸益の作品は決して大量の金碧画のなかでの埋め草的な存在ではなく,むしろ当時において新興なった瑞巌寺の,中世以来の寺格の高さを鮮明にする手だてとして大切に扱われたものであったことは考えられる。また,瑞巌寺の伽藍が完成した慶長15年(1610)から本格的な作画が開始される元して墨絵の間が機能した時期はあったのであるから,この点からも金碧障壁画に先んじて,水墨画のみを制作,あるいは他所から搬入した可能性をふまえておかなければならないであろう。水墨・金碧双方の障壁画の,表現技法の差を割り引いて考えても依然として存在する画趣の相違が,第一には制作時期の相違に由来すること,第二には住持(禅僧)と藩主の嗜好の差に由来すること,以上二点として抽出できよう。桃ともに制作に応じられることが画派としての絶対的成立条件であった。とすれば,この時代,画家が純粋な意味で水墨画家として存在することは困難であり,幸益の確かな金碧画でも出現しない限り,いずれかの画派の一員であったことは証明しずらく,むしろ身分として僧籍にあった人物を予想した方が自然ではないだろうか。(尚,作品の全図が見やすいかたちで掲載された図版は『文化財みやぎの遺芳』(文化財みやぎの遺芳編集委員会昭和58年)である旨,付記しておく。)今回の調査においては,郷目貞繁,吉備幸益らについても筆者なりに十分な資料を収集することを目標としていたが,時間の制約でなし得なかったことも多い。今後も上記のような視点に立ちつつ,調査を進めてゆく所存である。本稿においては,筆者の現段階における雪村研究のおおよその見通しを提示して,大方のご叱正をあおぐこととした。(1) 吉兵衛という人物が山雪にあてた,雪村筆「梅小禽図」の鑑定依頼書(『特別展狩野山雪』カタログ大和文華館昭和61年No43)(2) 中村渓男「雪村周継遺聞」(『新規開館記念特別展雪村タログ茨城県立歴史館平成4年)(4) 前掲(注2)のカタログ収載の参考文献から林進氏の研究論文を参照のこと。P.138和6年(1620)までの空白の十年間も大きな謎とされるが,その間も住時の応接室と山期以降の官学派では,狩野派•長谷川派などのいずれにおいても,金碧画,水墨画(3) 前掲(注2)のカタログNol3「四季山水図屏風」(六曲一双紙本墨画)など常陸からの出発』カ-330-

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