⑫ スティア教区教会堂のロマネスク柱頭彫刻の図像プログラム1)スティアの教区教会堂サンタ・マリア・アッスンタ聖堂(注1)2)カゼンティーノ地方の他の教区教会堂について研究者:沖縄県立芸術大学美術工芸学部専任講師尾形希和子中央イタリア,トスカーナ州にあるスティア市は,アルノ河とスタッジャ川の急流が合流するところにある。スティアは1400年にフィレンツェに併合されるまではグイド伯のポルチャーノ分家の支配下にあった。彼らの城塞がポルチャーノと現在パラージョと呼ばれている丘の上にあった。現存の教区教会堂サンタ・マリア・アッスンタ聖堂はグイド伯家の望みで1150年頃建設されたと言われている。グイド伯家は自分たちの埋葬所を聖堂のそばに作らせ,地下の埋葬所に続く入り口が左側廊に開かれていたが,18世紀の改造時に閉ざされ棺なども破壊され,そこに施されていた銘文も消失している。1956年地下の切り石組みの大きな半円アーチの下から石造の墓が発見された。そこから発見された窓のアーキトレーヴには1298年という年代が記されている。またロマネスク期のアプシスは1770年に取り壊され,半円アプシスの代わりに大きな四角いプランと円形ヴォールトを持つものにかえられた。ファサードも1776年に取り壊され,一径間分短くした位置にバロック様式のファサードが作られた。上質の砂岩ピエトラ・セレーナの大きな切り石積みになっている両側の壁面はオリジナルのまま残っているが,両脇の建築物がきわめて接近しているためにほとんど見えない。内部は二列の砂岩の一本石作りの円柱列で分割された三身廊造りである。ファサード再建の際に第一径間が短くなり半円柱の付け柱と持送りもその際に取り壊されたものと思われる。ロマネスク時代のオリジナルのアプシスの菱礎に沿って半円状に配された小円柱列は,1925年に作られ,柱頭は近くのロメーナのサン・ピエトロ聖堂の様式に似せて作ったということである(注2)。右側廊の現在の第三径間に相当する部分から張り出した小礼拝堂には,洗礼盤が置かれている。柱頭を飾る天使,動植物などの彫刻装飾が特にこの聖堂の中でも際だっている。それらはピエトラ・マチーニョというかなり固い石で彫られ,一つ一つが異なる。柱頭装飾や建築様式の面からスティアのサンタ・マリア・アッスンタ聖堂に類似しているのは,同じカゼンティーノ地方ではプラート・ヴェッキオ市近くのロメーナの-332-
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