鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
343/588

ように見える。外部も同様であるが,それらの柱頭はかなり摩耗しており,取り替え•教区教会堂サン・ピエトロ聖堂,モンテ・ミニャイオの教区教会堂サンタ・マリア聖堂,ストラーダ・イン・カゼンティーノの教区教会堂サン・マルティーノ・ア・ヴァード聖堂の三つに加え,同じトスカーナ州のアルノ河上流ヴァルダルノ・スーペリオーレ地方の(注3)グロピナのサン・ピエトロ聖堂,ピアン・ディ・スコのサンタ・マリア聖堂,カッシャのサン・ピエトロ聖堂などがあるが,特にカゼンティーノ地方の三つはスティアのものときわめて近い関係にあり,同じ石エたちの手による可能性も考えられる。a)ロメーナの教区教会堂,サン・ピエトロ聖堂丘の上に建てられた封建領主グイド伯のロメーナの城塞近くにあるこの教区教会堂の下からは現存のロマネスク聖堂以前のおそらく8世紀の建造物の基礎が発見され,以前は三重アプシス構造になっていたことから,当時はかなり重要な聖堂であったことがうかがえる。16, 17世紀の地震で,ファサードとアーチニつ分が崩れ落ちた。現在は二径間分短くなった形でファサードが再建されている。1729年の地震では再建されたファサードとプレスビテリウムと鐘楼に被害が及び,鐘楼はその時に低くされた。内部は,現在は左右五本ずつの一本石作りの円柱で分けられた三身廊造りで,柱頭の装飾は一つ一つ異なる。アプシスは,二段に重ねられた八本の小円柱の作るアーケードが柱廊列を形づくるられたものもある。特にこのアプシス部の装飾や全体の建築構造の面で,ヴァルダルノ・スーペリオーレのグロピナにある同じく聖ペテロに捧げられたサン・ピエトロ聖堂との類似が指摘されている。b)モンテ・ミニャイオ・サンタ・マリア聖堂スケッジャ川の急流の左岸にあるモンテ・ミニャイオも,やはり城塞とロマネスクの聖堂の周囲に点在する数多くの集落から成っている。11世紀以降グイド伯家がこのi也方を支配していた。このロマネスク聖堂の建設は12から13世紀にかけてであると言われているが,のちに様々に手を加えられ,20世紀初頭にはファサードもアプシスも作り変えられた。内部は一つの半円アプシスを持つ三身廊造りだが,アプシスに近い方は左右二本ずつの円柱,三番目からは三対の角柱になる。四本の円柱のうち一本が,六本の角柱の-333-

元のページ  ../index.html#343

このブックを見る