鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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つ。C)ストラーダ・イン・カゼンティーノのサン・マルティーノ・ア・ヴァード聖堂3)彫刻装飾プログラム一本のみが一本石作りである。このような円柱と角柱の併用は他の三つのカゼンティーノの教区教会堂には見られないもので,おそらく聖堂のファサードに近い部分が地震などによって崩壊したために後に作り直されたものだろうと言われている。アプシスの両脇の半円柱の持送りの装飾は左が鷲,右が天使のモティーフであり,ロメーナのサン・ピエトロ聖堂のものと類似している。第一対の円柱柱頭には植物のモティーフが施されている。第二の対は柱頭が幅狭になっており,拳葉装飾風のモティーフが施されている。角柱の柱頭には彫刻装飾の施されているものといないものとがある。カステル・サン・ニコロという地域のソラーノ川の右手の丘上にグイド伯の城塞の跡かある。教区教会堂はその下に開けたボルゴに建てられた。聖堂はトゥールの聖マルティヌスに捧げられているが,現在のサン・マルティーノ・ア・ヴァードの名で当聖堂が記録に現れるのは1153年が最初であり,この時期に従来の小聖堂がより複雑な形態に拡大され新しい名に改められたことがその記録からうかがえる(注4)。おそらくグイド伯が建て直しのスポンサーとなったのであろう。柱頭のモティーフを解読していく際に次のような点を考慮しなくてはならないだろまず,これらの教区教会堂の直接の注文主がおそらくグイド伯のいくつかの家系であったという点。彼らは装飾プログラムの決定にも何らかの影響を及ぼすことができたと考えられる。たとえばロメーナでは柱頭に刻まれた碑文にも登場する教区司祭ら聖職者と彼らの関係はどうであったかもまた問題となる。第二に,これらの教区教会堂はいずれもかつての道路網の重要な地点にあり,古代からの道路網,そして中世の道路網の発展と深い関係にある点。建築や彫刻装飾に関してはロンバルディア地方,さらにはフランス,オーヴェルニュ地方との類似,影響関係があると言われており,ローマに向かう巡礼の道ストラーダ・ロメアの続きにカゼンティーノの道路網も位置していたため,様々なモティーフや思想や建築家や石エたちの交流が遠い地方とも行なわれていたと考えられる。-334-

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