山岳などを描くものであったことは,そういった事情を明らかにしているといえる。その点からいうと「江戸名所図会」を種本とした理由はわかりにくい。必要ならば広重が足を運ぶこともたやすい場所を描いたものであるからである。にもかかわらず「江戸名所図会」を種本としたのは,広重が雪旦に共感するところがあったからであると考えるのは行き過ぎであろうか。内田氏が,広重が参考としたとされる「江戸名所図会」の挿図と広重の完成図は次の通りである。装束畠衣裳ー王子装束ゑの木大晦日の孤火(名所江戸百景)道灌山聴虫図一道灌山虫聞之図(佐野喜板東都名所)吾嬬森吾嬬権現連理樟ー吾妻之森(佐野喜板東都名所)橋弁財天雀名神井川ー王子瀧之川(佐野喜板東都名所)玉川猟鮎ー多満川秋の月あゆ猟の図(名所雪月花)鎧之渡ーようゐの渡し(江都勝景)これらの中には,道灌山虫聞之図のように「江戸名所図会」の図をほぼそのまま使ったものもあれば,その関係をあまりはっきりとは指摘できないものも含まれているように思われる。しかし広重が「江戸名所図会」を見たのは事実であるし,見るのが自然でもあった。「江戸名所図会」の編著者である斎藤月本の「月本日記」には,何箇所かに広重の名か記されている。ー立斎廣重始而来る廣重来る松よしへ行廣重同所へ来る廣重師匠豊廣年回の會万丁柏木也国口故不行これ以外にも,広重の名を見出すことができるが,広重と月本との交友は進んでいた。とすれば,広重が「江戸名所図会」を手にするのは当然であった。この時すでに雪旦は他界しているが,その子雪堤は度々月本を訪れているのであり,広重と雪堤が出会1846(弘化3)年9月29日1846(弘化3)年12月5日1847(弘化4)年8月6日1847(弘化4)年11月20日-25 -
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