鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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⑬南蛮服飾一陣羽織・胴服・具足下着ー一の基礎的研究研究者:仙台市博物館学芸員・主査嘉藤美代子室町時代後期から桃山時代を経て,江戸時代初期にいたる時期は,日本の美術史上特筆に値するときである。絵画においても,大画面の障壁画が数多く描かれ,その活力に溢れた絵画は人々を魅了してやまない。その時代にあって,同様のことが服飾にもいえる。それが,今回調査した陣羽織・胴服・具足下着などである。服飾は,身にまとうものとして一番先に識別されるものであるため,古代より身分を表す象徴として認識されてきた。それにより,服飾は身分による規制を受けてきた。平安時代以来,束帯を頂点とする「大袖・広袖」系の服飾は厳しい規則があり,身分により色・裂地などが決められていた。それが次第に変化していくのは,室町時代の中期頃からである。元来,「大袖・広袖」系の服飾の内衣であった筒袖状の衣を小袖といったが,12世紀末の「病草紙」に描かれるように,この頃から丸みのある袂を持った小袖が現れてきた。13世紀中頃からは脇明の小袖が見られるようになるが,室町時代以後は脇明の小袖は成人前の子女の衣服とされ,大人は脇を身頃に縫い付けた脇詰小袖が着用された。14世紀以降には小袖は私服だけではなく,公服としても着用されるようになり,次第に社会の中心的衣服となった。(鈴木敬三「袖」吉川弘文館『国史大辞典』)その変換は,応仁の乱によって促されたという。この乱は細川方と山名方が西陣を戦場とした戦いであった。このため西陣において織部司の伝統をわずかに伝えてきた京都の民間機業も一時停止してしまう形となった。打撃を受けた西陣の織手たちは堺に避難したので,織物は不足気味になったという。この乱の関係者の一人である日野富子が,上記のことを理由に女房装束の着用を取り止め,小袖姿で参内したという話もある。反面では例外的ではあるが,このような着用例などから,小袖が女性の正装とみなされていくようになったともいえる。しかしながら,あまり正式な場に出ることが少なかった女性に比べ,男性の服飾は依然として前代からの約束事に縛られていた。それでも,服飾上の下剋上といわれるように束帯以下の直垂などが武家の礼装となるなどの変化はあった。そうして,武家の活動性に合わせて軽快な小袖が,公服として着用されるようになった例は「織田信長画像」などが挙げられよう。初期の小袖は,伝統が伴わない分規制がなかった。そして,小袖から発生した陣羽織・胴服・具足下着は,戦衣や日常着であり,私服であ-348-

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