鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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ったため,もっと自由な意識が働いたとみられる。この時代のもう一つの特徴は,いわゆる南蛮人といわれるポルトガル・スペインを始めとする人々が訪れるようになったことが上げられる。これにより,キリスト教の伝道とともに交易が行われるようになり,ヨーロッパや広汎なアジア地域の数々の品物や技術がもたらされた。この中には当然繊維製品が含まれていた。この頃には使用されていなかった毛織物一羅紗・羅背板・呉呂など,縞や更紗などの木綿,モール,ダマスク,ビロードなど,わが国で製作されていた裂地とは別種の美しさを備えた染織品があったのである。形態や色自体にも規制がなく,これら新たにもたらされた裂地にももちろん使用上の約束事はなかった。この二つがあいまって陣羽織・胴服・具足下着は,自由な発想の下にあらゆる可能性を発揮したといえる。胴服は,室町時代以来の武家の略装の常用服であったといい,小袖袴の上にはおるのを普通とした服飾である。また旅装の一種として塵埃雨露を防ぐ働きもした。戦国時代以降は武将に愛用され,ネ任を付けない仕立で,華麗な幅広の襟に趣向を凝らすのを特色とした。合戦にあっては具足の上に着用したといい,軍陣では袖無し,平常では袖付の胴服を用いた。豊臣秀吉が文禄元年(1592)9月6日付で,肥前名護屋から夫人ねね宛てに送った書状に「又そでなしどうふくむやうにて候,そでなしは,ぐそくのときばかりよく候,いり不申候」とあり,袖無しの胴服が具足の上に着用されたことが知られる。この袖無し胴服が具足羽織と呼ばれ,陣羽織の総称で取り扱われるようになり,また胴服は羽織の名称で定型化していった。今回収集した胴服はすべて袖付のもので,具足羽織との分化が行われた後の形態を示し野外服,平常服に着用されたものである。そのため実用を追求するというよりは,華麗さや洒落た感覚をしめすものが多い。上杉謙信所用を始めとする胴服は,中国からもたらされた金襴や緞子,編子,ヨーロッパからのダマスク,羅背板とともにこの当時行われた辻が花の技術を用いたものが多い。辻が花最盛期の製作と思われる豊臣秀吉所用「桐矢襖文辻が花胴服」や徳川家康所用「丁子文辻が花胴服」は見事な縫い締め絞りの技を示している。この他には小紋染があり,鹿鞣におこなったものや,平絹におこなったものなどがある。胴服には裂地の導入という外国の影響とともに,袖下から見頃への仕立などに南蛮服飾の曲線裁断の影響がみられる。陣羽織は,戦国時代から武将が具足の上に着用した外被である。始めは風流の華や-349-

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