とに気づいたのは,現在までのところ完全に明らかにされてはいないが,世紀転換期のオーストリアの芸術教育学者フランツ・ツィゼクFranzCizekであったと考えられている。もちろん,それは,木版よりも安価で簡便な教育的な手段として代用的な使用法であり,リノリウムそのもの素材の特質を理解して,それを芸術的表現にまで高めたわけではなかった。しかし,コルクなどの細かい木屑を混ぜたことによるリノリウムの均質な版面,それが可能にする木目がないことによって素早く縦横に彫刻刀を容易にもちいることのできる造形上の自由さ,それが結果的にもたらす明暗の対比の明確なプリミティヴともいえる形態の単純さドイツ表現主毅の画家たちの注目するところとなった。最初期のものとして,ェーリヒ・ヘッケルErichHeckel, クリスティアン・ロールフスChristianRohlfsらの作例が知られている。一方リノリウムの発明された国イギリスでも,オーストラリアのメルボルン出身の画家ホレイス・ブロッヂキーHoraceBrodzkyは,ツィゼクのウィーンでの活動とはまったく無関係に,リノリウムが版に転用できることに1912年に気づき,ロンドンで制作を試みている。それがロンドン滞在中のフランス,オルレアン出身の彫刻家アンリ・ゴーディエ=ブジェスカHenriGaudier-Brzeskaに唯一のリノカット《レスラー》(1914年頃)をつくらせる結果となった。この作品はリノカットの歴史の冒頭を飾る傑作に数えられる(注4)。ドイツの表現主義の画家たちのなかで,もっとも集中的にリノカットに取り組んだのが,ヴィルヘルム・モルグナーWilhelmMorgnerである。そのうちの1点《トロッコを運ぶ煉瓦職人》は1911年頃にまでさかのぼるものと推定されている(注5)。刺繍のデザインもしたモルグナーの作品は,きわめて抽象化され,単純化されているとはいえ,装飾性に富み,しかも,そこに宗教的なモチーフが盛り込まれていることが多い。1912年に,まずミュンヘンのフランツ・マルクFranzMarcとワシリー・カンディンスキーWassily Kandinskyの評価をえて,かれらの『青い騎手年鑑』で作品が図版として紹介され,さらに「青い騎手」の第二回展「黒ー白」にも20点の素描を出品することになったのは,当然のなりゆきであった。そして,そればかりでなくベルリンの批評家で画商でもあったヘルヴァルト・ヴァルデンBerwaldWaldenの主宰する雑誌『デア・シュトルム(嵐)』にも,版画作品が継続的に掲載されている。1913年暮れにベルリンに滞在中の山田耕作(のちの耕搾)と斎藤佳三がヴァルデンそのようなまさに児童画教育にふさわしい要素は,すぐに-362-
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