版画No.2 手摺り〕」とペンで書き込まれていたことが『美術新報』掲載写真によって判明する。作者当人にとってもあまり特別なものとみなされていなかった日本で最初に紹介されたリノカットという技法が,当時の日本ですぐに反響を生み出すことはありえなかったであろう。事実,紹介者である山田耕作本人も目録のなかで,出品作には,木版画のほかに,リノカットばかりでなく,石版画,素描も含まれていたにもかかわらず「今回は木版画ばかり」と断っているほどであった。とはいえ,ロンドンでゴーディエ=ブジェスカの《レスラー》が誕生しようとしているときに,すでに東京の観衆もリノカットの実例をまのあたりにしていたという時間差のない時代的連動には注目すべきであろう。実際,「DERSTURM木版画展」に接して衝撃を受けた版画家の数は,けっして少なくなかった。恩地孝四郎もそのひとりであり,日比谷美術館と浅からぬ関係のあった長谷川潔も,この展覧会からなんらかのヒントを得たに違いない。デザイナー杉浦非水が,このときの出品作のペヒシュタイン2点を購入した可能性はきわめて高い。非水が生涯大切にしていたペヒシュタイン作品の人体表現は,疑いなく大きな影響をその作品にあたえつづけている(注7)。大正初年に鬱勃として起こった創作版画運動の端緒に,モルグナーのリノカット作品はまぎれこんでいたのである。初期の長谷川潔の一部の作品,香山小鳥の都市風景,フュウザン会系の作家の木版画などのなかには,すでにリノカットであってもおかしくない,直載簡明な,大胆な版表現がみられる。あとはリノリウムというものが原版に使用することができるという実例が示されるのを待つばかりであったのである。日本でのリノカットの紹介:その2'リュバルスキー「シトルム分社」と名乗った山田らの活動が,第一次世界大戦の勃発によって停止を余儀なくされたことは,象徴的な出来事であり,1910年代前半の過熱した美術状況はいったん沈静化することになる。版画に限っても,1910年代後半には,「H本創作版画協会」の結成が数少ない特記されるべき事項である。1917年のロシア革命ののち,内戦状態のロシアからシベリア経由で多くの白系ロシア人が日本に逃れてきた。1920年に来日し,「ロシア未来派の父」を自称したダヴィド・ブルリュークDavidBurliukとヴィクトール・パリモフViktorParimovのふたりの作家もまたそのような亡命者であったが,将来した作品によって大規模な展覧会を開くことになる。東京の会場は星製薬,会期は,1920年10月14日から同月30日までで,出品点数は473点にも達する「日-364-
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