鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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二00三00本に於ける最初のロシア画展覧会」である。このときの出品作として,ふたたびリノカットが紹介されている。作者は,経歴もまったく不明の画家である。このときの展覧会目録には,こう記述されている。リュバルスキー(モスクワ)三七九シュンフロミズム三八〇青い色三八ー一三八七哀調(ソナタ)三八八一三九五リノリューム版(七点)出品作品は摺られたものと思われるが,来日時にブルリュークらは,リュバルスキーの原版をもたらしたようである。最近発見された未米派美術協会会員の後藤忠光編集の版画誌『青美』第1号(大正10年4月1日発行)には,旗をもった騎乗の裸婦を描いたリュバルスキー作品が1点貼り込まれている。ネームには「無題…(露西亜未来派画家)…リュバルスキー」とある。後藤家のご遺族の証言に拠れば,木下秀一郎から後藤忠光が原版を譲り受け,それによってこの雑誌用にあらたに摺ったということである。また,小野忠重版画館には,これらの原版に基づいて小野忠重が後摺りしたと思われるリュバルスキーのリノカットが8種類残されていることが判明した(原版そのものが現存するかどうかは未確認。注8)。『青美』第1号が出版された年の10と同じ作品が出品されていたことも,1921年10月25日付けの『新愛知』紙上の図版によって確認することができる。リュバルスキー自身は,来日することはなかったと考えられるから,その原版を使用して,リノカットのイメージが,少なくとも前衛的な芸術家たちのあいだには普及していた様を想像することができよう。小野忠重は,リノリウムという素材に当時の版画家たちにとっての意味をこう説明している。「……今日なら金属版化するが,じかにリノリウムをつかって,だから当然刷圧の調節を欠くきたない効果ながら,リノカットは生れる。あのロシア未来派画家携行のルバルスキーママ作「死の踊り」「裸女」などにみつけた岡田〔龍夫〕の創意にちがいない。西欧でもリノ版は二十世紀にはいっての出現で,ドイツからロシアに及んだのだが,日本では軍縮会議の結果,軍艦甲板の敷物(いわゆる軍艦リノwarship-月15日から同月28日まで開かれた第2回未来派美術協会展に,『青美』所収の《無題》-365-各三00各ー00

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