linoleum)が街にあふれ出したこの時期に画家の手に渡ったのであり,のちには学童版画の材料にもなる……」(注9)。小野の指摘は,基本的には正しく,耳を傾けるべきものであるが,リュバルスキーのリノカットの原版の将来から,雑誌『マヴォ』を舞台に岡田龍夫が登場までには,実際には4年はどの時間が経過している。後藤忠光をはじめとする城山吐峰,井上富峰,大場清泉といった現在ではほとんど忘れられている版画家たちが『青美』に寄せた小品が,技法的木版であるかリノカットであるかを判断するのは,原版を発見しないかぎり,かなり困難であるが,作風は,『月映』の象徴主義を残しながらも,城山吐峰《カフェーの夜》に典型的にみられるように,リュバルスキーの《女》の室内表現の影響を明らかにたどれるものが存在する。ロシア・アヴァンギャルドは,日本にリノリウムという版画素材のかたちでも確実に及んできたのである。結語リノカットは,1914年の「シトルム分社」,そして1920年のダヴィト・ブルリュークの来B,というようにヨーロッパのモダニズムとの直接的な連携のなかで,日本に伝えられてきた。そして,「マヴォ」の岡田龍夫を中心とする本格的なリノカットの開花によってはじめて日本的な,ときには土俗的なエネルギーを秘めた独自の表現にまで到達することになる。ただし,「マヴォ」そのものも,1923年はじめの村山知義のドイツからの帰国,そして同年5月の神田文房堂での村山の個展という事件をぬきにしては,成立し得なかったにちがいない。ここでも,村山が当時のベルリンという濃密な文化空間の媒介者の役割を果たしている。しかし,村山自身が版画に強い関心を示したことはほとんどなかった。現在残されている作品で,版画を使用しているのは,ベルリンの画廊トワルディーでの個展の際の招待状(東京都現代美術館蔵)と『マヴォ』所載の1点のリノカット作品だけであろう。しかも,この招待状のドイツ語の部分は,木版画である(注9)。村山と開成中学,第一高等学校と同期であり,村山よりも早くベルリンにおもむいていて,いわば滞欧中の案内役を一時果たすことになる和達知男の作品の多くか,現在,神奈川県立近代美術館に所蔵されているが,そのなかに,2点の版画(《もたれる裸婦》《山岳風景》)が含まれている。村山は,帰国後,画家としての和達の存在をまったく無視しているばかりでなく,和達も1924年春までヨーロッパに留まることになるから,これら-366-
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