注(1) 小野忠重『版画一近代日本の自画像ー』(岩波書店,1961年),『近代日本の版画』(2) 1986年のポンピドゥー・センター(パリ)での「前衛の日本展」,1993年のグロピ(3) 一連の研究の成果は,『大正期新興美術運動の研究』(スカイドア,1995年)に集(4) この作品の生れる経緯については,HoraceBrodzky, Henri Gaudier-Brzeska, London, 1933, pp. 44-45に詳しい。(5) Andrea Witte, Wilhelm Morgner. Graphik. Verzeichnis s註mtlicherHolz-und Lino-schnitte, Lithogphien und Radierungen. Ausst. Kat. Soest, 1991. (6) 藤井久栄「資料調査『月映』再考,附「DERSTURM木版画展覧会」出品作に(7) 拙稿「小さな証言者一杉浦非水旧蔵ペヒシュタイン木版画について」『ドイツ表現の版画作品に年記がない以上,実際,村山がそれをまったく知らなかった可能性はないわけではない。ただし,その技法がリノカットと思われることは注目すべきであろう(この所見については,大英博物館の版画室キュレイター,ステフェン・コペル氏の同意を得た)。少なくとも,当時のドイツでは,リノカットはけっしてめずらしい技法ではなかったのである。トワルディーでの個展招待状のもっとも重要な点は,ベルリンのダダイストにならってチケットが貼り付けられているようにコラージュであることであろう。版画を広義の印刷物としてとらえ,多様な要素を作品に組み入れることによって,ダダ的な工ネルギーをつくりだすという手法は,帰国後の村山が,「マヴォ」の活動を通じてもっとも自覚化していく重要な局面にほかならない。おそらく,そのとき,リノカットこそがもっとも機械印刷と適合する技法であることに気づいたにちがいない。そして,それが「マヴォ」の芸術家たちが破壊しつつ信奉した,メカニズムの美学のもっとも輝かしい符丁となったのである。(三彩杜,1971年)など。ウス・バウ(ベルリン)での「日本とヨーロッパ,1543-1929年」。大成されている。の年代推定に拠る。ついて」『東京国立近代美術館紀要』第1号(1987年)。主義の版画展』(カタログ,1994年)。-367-
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