鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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4)ピサヌローク・バンタオハイ窯(ピサヌローク県)1984年春にタイとオーストラリアの学者によって発掘調査された窯で,3基の窯が確認されており,褐釉や焼き締めの陶器•印花文土器などを生産していることが報告いる。窯址は小高い丘の上に煉瓦で築かれており,規模はいずれも13■15メートル程度のきわめて大きな窯で,内1基は古い窯の上に築きなおしたものである。報告書には記されていないが,筆者の観察によると6号窯(最北側の窯)も古い窯を二度作り直した痕跡が焔道の外部に明瞭に認められる。活動年代については一応15■17世紀という推定がなされているが,確定的な資料はまったく発見されていない。製品は褐釉四耳壷が中心でほとんどの陶片を占めているが,そのほか小型の焼き締めの揺鉢が大量に焼かれており,また焼き締めの甕や瓶・碗なども少なからず作られている。このうち注目したいのは褐釉四耳壷に頚部の形状のうえで2種類が区別される点である。採集できるほとんどの陶片は短頚の壷で,きわめてまれに長頚の壷がある。しかしこの長頚壷の採集できる地点は限られていて,前述した6号窯の付近でのみ見られるようである。筆者はメナム・ノイ窯における褐釉四耳壷の生産活動はかなり長期にわたっていて,前期には長頚壷が作られ次第に短い頚のものに変化したのではないかと想像している。タイ湾の沈船遺跡をはじめインドネシアやオーストラリア/南アフリカ/セント・ヘレナ島/日本など世界各地で出土しているメナム・ノイ窯産と推定される褐釉四耳壷には,長短の頚部の壷があり,各遺跡の年代との考証によってある程度メナム・ノイ窯の四耳壷の編年は可能ではないかと考えており,継続して研究をおこなうつもりである。されている。現在見ることができる窯は1基のみで,ワット・バンタオハイの横の小学校の裏手の土手下に保存されている。窯構造は基本的にシーサッチャナライやスコータイと同じで,活動期間を同うすると思われるが,ただ煉瓦積の方法と屋根の形状が異なる。報告書では窯の位置がナン川の川岸に築かれていることから,貿易陶磁としての可能性を推測している。筆者が特に興味を覚えたのは,褐釉四耳壷の形状や釉薬などがメナム・ノイ窯の製品と近似しているという点である。またそれに加えてある種の窯道具が両者のみに共通する特種な形状のものを使用しているという点である。メナム・ノイとバンタオハイとの親密な技術的交流関係はかなり高い可能性があると考えているが,この問題はタイの貿易陶磁が盛んになる15世紀以降の陶磁史の流れのなかでサワンカロク諸窯などともに総合的に考証する必要があるだろう。-376-

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