す深刻な側面を示すかのようであった。見学者の決して多くはない博物館の内部は,展示場として充分に整備されているようには見えなかった。キジルやベゼクリクの石窟寺院の壁に描かれた仏教絵画の見事な模写画は,ガラス越しの陳列棚に入れられずにビニールのシートで覆われているだけで,それが破れ,たるみ,そこに埃がたまったままに放置されていて鑑賞を著しく損ねていた。トルファン市郊外の高呂故地,交河城遺址,そしてベゼクリク千仏洞などの著名な遺跡見学のためにも10万円が要求された。2泊3日の遺跡訪問には副館長が同伴してくれたが途中で同行者の人数が増えた。その代わりに賑やかで楽しい旅行にはなった。遺跡見学は貰重な体験であった。しかし20世紀初頭に日欧の列強か行った中国の歴史的文化財への破壊的行為の,今にも残る生々しい跡を,そのベゼクリク千仏洞にみて重い気持ちになった。5日間にわたって,現地博物館の一室で資料を前にして討論の時をもった。中国人研究者の武敏女士(65歳)は,1959年来,新彊地区の考古学的発掘事業の指揮をとってきた呉哀氏の夫人で,アスターナ,カラホージョ新出土の染織資料を『文物』誌上に逐次発表をし,日本の研究者の間では知られ,最近著書も出版し(注1)'この道の権威者を自負し,自信のあるところを見せた。実に豊富な原資料を抱えておられるのは,まった<羨望のかぎりであったが,かねて彼女の論説に解せない部分があった。不明な部分の解答は,最近になって文書の形で送られてきた。予想されていたことではあったが,共同研究が継続される場合には,ここに見出される不一致は,決定的な争点となることであろう。彼女の持論と我々によって構築されたシルクロード染織史論を比較して(注2)'その論点を明らかにしたい。シルクロードという名称から得るところの印象は豊な絹織物のイメージであろう。しかし実際にはシルクロードが通過していたところは牧畜地帯で,人々の通常の織物原料は家畜の毛であった。それは今も変わらないが,当時人々は絹には無縁で,見たこともなかったであろう。すなわちそこは毛織物の世界であった。動物の毛は絹糸とは違っている。従ってそこには異なるタイプの織物が作られていた。糸があればどんな織物でも出来てしまうというものではないのである。使われる糸の特質が織り方や織物の形を決めているのである。毛糸と絹糸(生糸)の違い,こ--29 -*
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