鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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ヽヽ覧会を関いた1929年11月頃から,ヒットラーをめぐる考えから両者のあいだに大きな溝が生まれた1934年2月ぐらいまでである。いずれにせよここでも精神であって作品ではない。それではダリの作品はシュルレアリスムの絵画と呼ぶことができないのだろうか。図2\.. 一般にシュルレアリストとして語られるダリであるが,作品上にその傾向が現れてくるのは,1927年に描かれた『蜜は血よりも甘い』([図1]'現在,所在不明で写真でのみ知ることができる。なお習作は現存),『器官と手』[図2]'そして翌年の初頭に完成した『セニシタス』[図3]からである。それまでの表現はキュビスム,あるいはダリ自身の言葉でいうならばアカデミックなネオ・キュビスム(古典的表現と総合的キュビスムをあわせたもの)が中心であった。これは1926年に初めてパリヘ旅行したときにピカソにあったことによりより強まっていった。それがわずか1年後に大きく変わるのは,何人かの研究者が指摘しているようなジョアン・ミロに出会ったからではない。このカタルーニャの画家がフィゲーラスのダリを訪れたときにはすでに,『器,, ヽ/ノ\/ ―-381-ノ図1図3

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