鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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(1926-27年,[図5])に,あるいは舞台美術を担当したアドリア・グアル作・演出官と手』と『蜜は血よりも甘い』は描かれており,それらを見たミロは強い印象を受け,「オ能に満ち,パリでの輝かしい道が開かれている」と書き送っている。しかしながら当時のバルセロナの論調は,それらの作品はおもしろくない,嘆かわしいものだという考えが主だったものであった。ところでこれらの作品には,後の「パラノイア・クリティック(妄想的批判的)」表現にも頻繁に現れる腐敗物(死んだロバなど)や,ダブル・イメージがわずかながら描かれている。いずれにせよこの三作品は,ドーン・エイデスが語るように同時期に書かれた文章『サン・セバスティア』の視党化であるのかもしれない(注3)。とは言え,それらのなかに描かれたもののいくつかは以前からダリのイメージのなかに現れていたものである。とりわけ『蜜は血よりも廿い』に描かれた男性の頭部は,キュビスム風の『藤色の月明かりの下の静物』(1926年,[図4])や『月明かりの下の静物』の『アルルカンの家族』(1927年3月,[図6])の背景のなかに現れるギリシア彫刻の頭部から発展したものとも考えられる。さらにまた,26年の二作品には同年の『超現実的デッサン』のなかに表わされた魚,おそらく舌評が描かれている。ギリシア彫刻の頭部。それは,この時代バルセロナを中心としたカタルーニャにまだ支配的であった,古典主義的なノウセンティスム(20世紀主義)とかメディテラニスム(地中海主義)の考えに対するダリなりの答えなのかもしれない。新しいカタルーニャ主義であるこれらの考えは,地中海の光と,彼方の古代ギリシアとローマの美を理想としていた。このような考え方の連中にとって,1909年にバルセロナから海岸線を北に100キロほどいったところに位置するアンプリアスで発掘されたギリシア時代の一体の彫刻とアフロディーテの頭部は光明であった。ここで中心的役割を果たした文学者エウジェニ・ドルスは,これこそカタルーニャが古代ギリシアの一員であった証拠として伝統の回帰をさらに謳いあげた。アンプリアスはアンプルダン平原の端に位置する。そして,ダリはこのアンプルダン平原のなかのフィゲーラスで生まれ育ち,小漁村ポル・ユガット近くのカダケスにあった父親の別荘で暮らしたりしていた。その彼はこの平原を独特な光を備えた特別な場所と語っている。おそらくこうしたダリをもっともよく理解していたのは詩人ガルシア・ロルカであったといえる。彼は,初めてカダケスを訪れた後に書いた「サルバドール・ダリに捧げるオード」で,つぎのように歌っている。-382-

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