鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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1928年,ロルカの『ジプシー歌集」にたいする手紙の最後に,「シュルレアリスムは「現de l'Art Nou新芸術の友)であった。彼らは表現においても,政治的においてもシュいずれにせよシュルレアリスティックな様相が表現された1927年の三作品ではあるが,ダリ自身がシュルレアリスムの側に立って,それを支持するのはさらに二年はどを必要とする(注5)。その間,彼は美術批評家セバスティア・ガッシュとユイス・モンタニャと共に「カタルーニャ反芸術宣言」(黄色の紙に書かれていたので,「黄色い宣言」と一般に呼ばれている)を出すが,イタリアの未来派の宣言に影響を強く受けたこの宣言の最後に掲げた今日の偉大なる芸術家のリストを見れば,彼らの傾向がわかるだろう。それは,「ピカソ,グリス,オザンファン,キリコ,ジョアン・ミロ,リプシッツ,ブランクーシ,アルプ,ル・コルビュジェ,ルヴェルディ,トリスタン・ツァラ,ポール・エリュアール,ルイ・アラゴン,ロベール・デスノス,ジャン・コクトー,ガルシア・ロルカ,ストラヴィンスキー,ゼルヴォス,アンドレ・ブルトンなど」である。さまざまな傾向と分野と自ら書いているようにキュビスト,シュルレアリスト,画家,彫刻家,音楽家,詩人,批評家があげられている。三人にとっては旧来のではなく,新しい表現をいかに追究するかが重要であり,そのために格闘している連中に連帯を示したのである。当然これは多くの反発を受けた。ダリはおそらくこの頃から,保守的な空気のなかにあったカタルーニャの芸術文化世界に別れを告げようと考え始めたと思われる。それはまたロルカとの決別にも繋がっていく。ダリはロルカとの距離が開くにつれシュルレアリスムに傾斜していったと思われる。実逃避」の手段のひとつです。この現実逃避は重要なものです。僕はシュルレアリスムの埓外にある手法を持ちつつあるが,これは強烈な何かだ」と書き,シュルレアリスムを意識しつつ,彼なりの表現法,つまりパラノイアック=クリティック,を確立しつつあることを告げている。そして翌年の『芸術の友』最終号(3月)でシュルレアリスムを認める文章を書いて,パリのグループに加わっていく。スペインでシュルレアリスムの動きが活発になるのは,ダリがフランスの方に向いてからである。その中心になるのは,彼の友人であったセバスティア・ガッシュと,ジョアン・ミロやダリの初個展を行ったダルマウ画廊の画廊主ジュセップ・ダルマウらに支持された若い表現者たちである。そのなかで結成されたのがADLAN(Amics ルレアリストの立場であった。それゆえに,共和国を支持することになるが,ときにその政治上の部分だけが強く語られ,彼らが生み出した作品について語られることは-387-

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