れはとるに足りない視点のようである。それゆえ見過ごされ,そのためにシルクロード染織研究ひいてはわが国上代染織研究に‘決めて'となるような論議が生まれてこなかったと見ている。鳥や花のような複雑で具象的な模様は,普通の織機では織ることができない。経糸と緯糸を交錯させて織物の本体を作る装置(綜続)と共に,模様を織り込む別途の経糸の引き上げ装置(紋綜続)を具えていなければならない。それを,‘紋綜統’と言い,その技術を‘紋織'figuredweaveと言う。これによって同じ模様を繰り返し織り出すことが出来た。人類が初めて生み出した生産プロセスの機械化と言えよう。ところで経糸と緯糸か交錯するだけの‘織'weaveの技術は普遍的に発生し得ても,紋織技術は世界のどこにでも起こり得るものではなかったと考えている。身近なところで繊維素材がみつかれば,それを糸にすることは広く行われることであったが,その糸のどんなものからでも,紋織が出来るというものではない。出来ない,或いはそれに不都合なものもあったのである。経糸をどのように動かすかによって様々な織物が出来上がってくるが,紋織技術では,経糸は織物組織も作り,模様をも作らねばならない。そのために経糸は二重に引き上げられる負担をこうむる。そのため経糸は摩擦に強い糸であることが必要であった。その時,中国の‘生糸'は長く細く強靭で,しかも滑りがよく,経糸にうってつけであった。中国の古代の絹織物が,経糸を優位に据えた織物であることは知られている。基本的な平織ですら経糸の密度は常に緯糸と比べ高く,時として倍にもなるものも少なくない。このような生糸特有の性質が,世界史に輝かしい足跡を残すところの経錦’や‘平地綾'(綺)などを織り出す紋織技術を生み出したと考えている。経錦は経糸の色で模様をあらわすが,その数は数千本にも達していた。そして戦国時代にはすでに完璧な形で成立しており(注3)'漢代にはローマにまで運ばれた。それはまったく中国の生糸の豊富な生産量なくしてはあり得なかったであろうし,またそれに相応しい使い勝手のよい織機があったであろう。それに対してシルクロードに沿う一帯では毛糸が織物の通常の原料であった。毛の繊維は生糸とはまったく対照的な特徴をもち,短く,表面は鱗状にざらつき,摩擦にきわめて弱い,それらの特質は織物の経糸として不適であった。そこで糸にしないで布にする方法が古くから行われていた。水と熱で縮絨して作るフェルトである。または経糸に負担をかけない織り方が発達していた。経糸と緯糸の交錯点をずらして織る-30-
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