鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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—ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館所蔵作品のスケッチを中心として一1904年(明治37)に奈良県郡山中学を卒業後,柑母以外の大方の親族の反対を押し⑱ 「富本憲吉イギリス留学時代の研究」研究者:京都国立近代美術館研究員松原龍「模様から模様を造らず。」この句のためにわれは暑き日,寒き夕暮れ,大和川のほとりを,東に西に歩みつかれたるを記臆す(製陶余言)。と厳しい態度を貰いた富本の作陶は,大和時代,東京時代,京都時代の3つの時代に分けられ理解されている。今回行った,富本イギリス留学時代に描いたスケッチの調査は,陶芸家として大成した富本が,陶芸を志し陶芸で身を立てる以前の,初期学習時代のものである。それは,陶芸家,富本の素顔,つまり彼の根底にある工芸観を考える上で非常に重要な示唆を我々に与えてくれると,考えられるからである。富本憲吉は,1886年(明治19)6月5日に奈良県生駒郡安堵村字東安堵の庄屋をかねた地主の長男として生まれた。父の豊吉は漢学を修め,書や南画などを身につけていた教養人であった。富本は,父に生活の中で中国の古染付や有田の初期染付などを見せられていたので,自然と焼きものに興味をいだくようになったようである。これらは富本の工芸観の形成に大きく影聾したことは言に及ばないことであろう。少し外れるが富本の名,憲吉も,父の尊敬していた田能村竹田の名「孝憲」と,憲法発布の日が近いことに因み名付けられたという。また,父が奈良,京都間の鉄道事業に携わっていた関係もあり,幼少の頃は,ネ且母に育てられた。祖母は,村の娘たちに裁縫や染織を教えており,自然と富本も工芸の一分野の染織に馴染んでいった。さらに,母方の祖父は隣村の西安堵の初代村長を勤めた人であり,南画を趣味としていた。その祖父の友人の南画家から,富本は南画を習った。当時7歳であった。このように幼少の頃から,芸術に造詣の深い環境で知らず知らずのうちに彼は教養を身につけていった。切って東京美術学校図案科に入学した。さらに翌2年生の時からは,建築および室内装飾を専攻し,大沢三之助主任教授および岡田信一郎講師に教えを受けた。そして,かねてより興味を持っていたウィリアム・モリスの工芸思想を実地に見聞し,加えて西洋建築を見るために,1908年10月,東京美術学校の卒業制作を早く完成し私費で渡英したのであった(留学中に卒業)。このイギリスのロンドンを選んだのは確かにウィ-398-

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