綾織(斜文組織,三大原組織の一つ)である。経糸に適さない毛糸のそうした性質からは,紋織技術は生み出されてこなかったと考えられる。頻繁な経糸の引き上げに耐えられないからである。つまりそこには紋織技術はなかった。少なくともそれを生み出そうとする積極的な意図はなかったであろう。しかし織物に模様をつける有力な技術はあった。絨毯や綴織である。それらは色糸を指先で経糸に結んだり,絡めて模様を作り,経糸をほとんど動かさない。絨毯や綴織は,今でも盛んに行われており,芸術的であり非常に高価であるが,作業の能率の点では,原始的ではあっても機械化している紋織技術に比べるべくもなかった。絹がシルクロードを熱っぽく求められて運ばれていったことは誰しも認めるところであるか,その道は単なる搬送路ではなかった。いまふうに言えば‘技術革新’の道であった。シルクロードの絹問題はそこにあると考えている。シルクロードを通って中国の錦や綾が西方に向け送られていった証拠は,シリア,パルミラ遺跡の出土品に見出すことが出来る(注4)'それらはパルミラ貴族の衣生活を実に豪華版に飾っていた。西方人が中国の錦や綾をみた時,その美しさに見入ったことは確かであるが,より驚嘆したのはその紋織技術であったろうと考えている。錦や綾はまたほぐされて紬糸に作られた。そして毛糸と交織された例はパルミラ裂に少なくない。それが丈夫な経糸になったからである。こうした解体の作業の間で中国紋織の秘密がとらえられたことであろう。そして彼らもまた紋織技術を持とうと考えたであろうことは想像にかたくない。しかし生糸で作られている中国経錦と同じに,経糸に不向きな毛糸や絹の再生糸で作るのは不都合であった。そこで模様を作る色糸を経糸から緯糸に換えて‘緯錦’の技術を開発したのである。緯錦は8世紀の正倉院染織のなかでひときわ華麗さを放ち,上代染織の精華と謳われているが,ここに成立した原初の緯錦は,経錦の構造と顕紋の方向を90度回転したものと同じで,織耳のない断片の場合には一見して経錦か緯錦かの見分けがむずかしい。これが研究者を悩ませ,しばしば判定を誤らせていた。スタインSirAurel Steinが,ローランLM址(3世紀)やアスターナ墓地6区と2区(4世紀)で発見した錦の断片は(注5)'漢錦でよくみる動物山岳文をぎこちなく写し,糸には撚りがかかり毛糸のようで分厚く,ほとんど撚りのない生糸をもっぱら用いて作る中国紋織とはとても見えない。模様に西方的な四弁花文を添えているのも異国趣味である。ヘディンDr.Sven Hedinもロプ砂漠で発見している(注6)'ス-31-
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