褐色で線を描き,皿に描かれている花や葉は緑色で彩色されている[図6]。その他沢山のスケッチがあるが,参考図版の通り,それらを見れば若き日の富本が,初めて行った外国で,いかに意欲的にまた強い興味を持って毎日を過ごしていたのかを見て取ることができる。これらの経験は富本の工芸に対するスタンスを方向付け,それまでの伝統に根差した日本の工芸家たちとは,全く考えを異にしたものであると考えられる。たとえば帰国後の1912年3月,上野公園竹之台陳列館での美術新報主催の「第3回美術展覧会」に,今回調査のスケッチや留学中に集めた染織などの工芸品を出品したことや,「美術新報」に執筆した「ウィリアム・モリスの話(上・下)」11芸品を紹介した「工芸品に関する私記より」11巻6号(明治45年4月)などを見ても,それまでの日本の伝統的な工芸家たちが持っていた工芸観とは異なった,新しい工芸観を示したといえよう。とくにウィリアム・モリスに関しては,日本への紹介者として重要な役割を果たしたといえよう。また少し年代が下がるが,大正14年に文化生活研究会から出版された「窯辺雑記」には「茶道がわれわれ日本人にあたえてくれた恩は甚大である。とくに陶器においてとくにそれを感じる。しかし現今の生活では茶道は死んだ言葉であると思う。それは研究すべきである。そしてそれを復興することに努力するよりは,新しくその研究によって出発点を発見し,拙くともこの社会に適し,かつ何物かをあたえることの出来る陶器を造り出すべきだと思う。」と伝統的な陶芸に対する意見を述べている。またウィリアム・モリスに傾注していた富本には晩年までモリスの影響が伺え,「富泉」と名付けられた富本デザインの陶器の量産はまさにそれと見て取ることができよう。この量産についても先の「窯辺雑記」に富本の言葉があり,「あまり人々は一つ出来てまた二つと出来ないことを陶器で過信しているように思う。長い間の練習と経験とで同一物をある程度まで造り得ることを私も近頃たしかに知り出した。このことが一つには堕落への途であることはたしかだが,また他の一方からは陶器愛玩の人の数を非常に多くしたことともいえると思う。この点を充分に理解し,一方にいつも古いよい陶器で自分を鞭打ちながら,日常用陶器を安価に数多く造る決心を数年前からしだしたが,いまだにその時期に至らぬのは残念である。これをやる陶器家には非常に危険が伴うのは当然なことではあるが,現今のわが国陶器界にとっては少数の人でも充分な考えを持ってはじめなければならぬことと思う。私は数時間あるいはもっと長巻4号•5号(明治45年2月・3月),ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館のエ-402-
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