鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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8)。単独像と,蘇洵・蘇轍とともに描く三蘇像の二種があり,単独像には,全身像と海南島に流されていたころ,にわか雨に降られて笠と展を借りたという故事を描く。この典拠については以前述べたことがあり(注7),ここでは省略する。文献では西胤俊承の「東波笠展図」(1422年以前)が最も早い。実作例としては,惟肖得巌(1437没)賛の図(『東洋美術家宝集』第一輯下),瑞巌龍愧(1460没)等賛の図(メトロポリタン美術館),横川景三(1493没)賛の図(京都・妙心寺大心院,中国故事人物図の内),「元信」印のある図(京都・本能寺『京都名刹遺宝図録』),また縮図中に伝狩野正信筆の図(文人画研究所『探幽縮図』),伝雅楽助筆・横川景三賛の図(『大倉集古館蔵探幽縮図』)がある。(6) 雪中会衆星堂図元祐6年(1091)の詩「衆星堂雪井引」にもとづく画題。文献では西胤俊承の「東波雪中会衆星堂図」がある。(7) 肖像画特定の故事逸話を表わさず,蘇拭その人の風貌に焦点をあてる作品をここで扱う(注半身像がある。現存作では,いずれも子聰様帽(東破巾)を被り,口髭と顎髭を蓄えている。また全身像では,みな叉手して立ち,半身像では右手に竹杖を持つ。単独像の現存作では1437年以前に成立した惟肖得巌(1437没)賛「蘇東披像」が最も早く,三蘇像の現存作は,1463年以前に成立した春林周藤(1463没)等賛「三蘇像」だけである。文献上では,「東波像」「東破先生画像」といったタイトルの題詩や賛が,単独像の作品に対応すると推定される。その中で,詩文の作者の没年からいえば,惟肖得巌の詩「東破先生画像」が最も早く,続いて江西龍派(1446没),瑞巖龍怪(1460没),瑞渓周鳳(1473没),希世霊彦(1488没),横川景三(1493没),正宗龍統(1498没),万里集九(-1501-)の詩文がある(注9)。三蘇像の文献は,上述の現存作のために作られた希世霊彦の「題三蘇画像」だけである。(8) 愛(詠)海棠図海棠に関連する典拠としては,元豊3年(1080)の詩「寓居定恵院之東,雑花満山,有海棠ー株,土人不知貴也」と,元豊6-7年の詩「海棠」,そして「記涸定恵院」が想定される。文献では,惟肖得巌(1437没)の詩「東域詠海棠図」が最も早い。現存f乍では,策彦周良(1579没)賛「東被焼燭照海棠図扇面」(南禅寺,扇面貼交屏風の内)-409-

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