鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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draw-loomを創造した。その誉れある地を,今,特定することが出来ないが,つまりタインはこれを経畝紋warpridweaveと記し,これをうけて武敏氏も経錦と主張している。わが国でも漢錦の衰微堕落したものとみた。しかし近年になって欧米の研究者の間においてであるが,組織の分析的な研究が進み,織耳のない場合でも判定可能な理論的根拠が示され(注7)'それまで経錦と見倣されてきたものが緯錦と見直されるようになった。これら初期緯錦は東アジアではあまり例を見ず,ここ新彊やシリア,またアンチノエ(エジプト)から多くが毛織物で出土している。興味あることは,それらに西方の織物装飾術であった綴織に共通する織りの特徴がよく見てとれることで,これによってもおのずとその出自が知られる。緯錦技法の成立を唐代中国に求める説はわが国に少なくないが,中国人が作り出したものではない。毛織物圏に成立した緯錦技法は,やかて今日のジャカード機の祖型となる‘空引機'エジプトのアレクサンドリア,シリアのアンティオキアはその有力候補地だが,しかし‘セリンディア’から養蚕術を取り込んだササン朝ペルシアの宮廷付属の工房でより発展し,人も知るササン錦が量産されるようになったと見ている。空引機の発明の栄誉は古くは古代中国に捧げられていた。それを疑う研究者はいなかったし,今なお信じられている。しかし空引機では,経錦の製作は,日本では‘制約があって困難’と表現され,これが普及しているが,実際のところ‘不可能’なのではないかという見方が,同様欧米の研究者の間で問題になった。1960年代に,ヨーロッパやアメリカに所在する漢代経錦が厳密な分析の対象となった(注8)'そうして今,理論的にだが,経錦の製作には空引機は使われていなかったとする見解が,欧米の研究者の間では定着している。なお漢文資料(王逸『機婦賦』)や中国美術資料(画像石)について考察の必要かあるとしながら,これを支持に値する説とみている。空引機では単位紋様を経糸方向と同時に緯糸方向にも繰り返しを可能とし,中国紋織のそれが経糸方向のみであったのとは異なり,機法上根本的に相違する紋織装置をもつものであった。その相違はおのずと意匠形式の違いとなって現れてきた。すなわち漢錦では連なる山岳文の間に竜や鹿などの動物が横一列に配され,時にそれらに瑞祥の漢字が散らされるが,その単位紋様は,横に長く(一幅,50■35cm),縦に短い(5■7cm)。緯錦では正倉院錦で知られるように円文意匠が主流となり,それが経,緯の両方向に展開する形となる。出土品からみる錦の意匠は実際のところ多様である。武敏氏はこれに注目して,トルファン出土の錦の装飾形式を仕分けて類型化している。しかし意-32 -

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