鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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る。15世紀以降の蘇詩愛好の風潮に起因して,鑑賞者側の蘇試像への需要が増大し,典拠賜執政購読史官燕於東宮。又遣中使就賜御書詩各一首,臣拭得紫薇花絶句,…」を詠んでいる。これがこの画題の典拠である。文献では,月舟寿桂(1533没)の詩「東波選英閣講論語図」などがある。現存作では南禅寺の「扇面貼交屏風」に,鉄斐景秀賛の図,元秀印・玄圃霊三(1608没)賛の図,影叔守仙(1555没)賛の図,の3件があ(31) 負瓢図趙徳麟の『侯鯖録」に載る,蘇拭が海南島で大きな瓢蹴を背負って歩きながら歌い,春夢婆に出会った故事にもとづく画題である。蘇献にはこの外に,海南島で瓢鏑を携えて出遊したときのことを詠んだ詩「海南人不作寒食,而以上巳上家,余携一瓢酒,尋諸生,…」もあり,これが典拠となる可能性もある。(32) 二蘇対床聴雨図嘉祐6年(1061)都を出発して弟,蘇轍と別れたときに詠んだ詩「辛丑十一月十九日,既典子由別於鄭州西門之外,馬上賦詩一篇寄之」,元豊6年(1083),黄州で詠んだ詩「初秋寄子由」などにもとづく画題。月舟寿桂(1533没)の「二蘇対床聴雨図刻燭一寸典雪嶺賦之」と雪嶺永瑾の題詩がある。(33) 観麿瀑図元豊7年(1084)蘇軟は薩山に初めて入り,その瀑布を詠んだ詩「世伝徐凝瀑布詩云…,乃戯作一絶」にもとづく画題。春沢永恩(1592没?)の題詩「東披観薩瀑図」かある。(34) 愛芍薬図煕寧9年(1076)密州の南禅寺と資福寺の法会に供えられた芍薬を詠んだ詩「玉盤孟二首井叙」を典拠とする画題である。実作例として伝真笑筆・宗恕賛「東破愛苗薬図扇面」(文化庁扇面画帖の内)がある。以上のように,画題の典拠の多くは蘇試自身の詩文に求めることができる。しかし戴笠騎譴図のような,特定の典拠を持たないように思われる画題もある。おそらくはから離れた蘇拭像が出現したためであろう。また別表4に見られるように,画題の数は,およそ100年をかけて,ピークに達しており,蘇詩の普及に伴って,徐々に画題が広がっていったようである。-413-

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