鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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匠上の区分けに留まって,それが新旧の紋織機の相違から拠ってもたらされてくる変容とみていない。近年編纂された『吐魯番出土文書」をみると,ササン錦と考えられる‘鉢(波)斯錦'フタル)が梁廷に使いして黄獅子や白豹の皮とともに‘波斯錦'を献上している。ソグド系中国人何妥が蜀と通商して「金吊」を商い,巨富を貯え西州の大買と謳われたことが『隋書』に見える。金吊は錦であろう。蜀でペルシア錦が売買されていたのであろう。すると彼らは経錦とまったく異なるペルシア緯錦の意匠に驚嘆を禁じ得なかったと想像される。彼らは斬新なペルシア錦文に心酔しながら(『玉台新詠』),もどかしいことではあったが伝統的な経錦技法で製作するしかなかった(図1,2)。法隆寺に伝えられる「蜀江錦」はこうした六朝時代の中国錦の製作の状況を反映しているとみてよいであろう。しかし,やがて何妥の甥の何桐が開皇初年(A.D.581)に,「組織殊麗」な波斯錦の抱を皇帝のために製作して献上したことが同じく『隋書』に見える。おそらくこの頃から,ようやく中国でも空引機が組み立てられて動き出したのであろう。外来技術の緯錦製作は,おそらく国家的プロジェクトとして,宮廷直轄の工房(織染署)で,優秀なデザイナーや織り手を揃え,多分に,貞観年間(627-649)に本格化したのであろう。そうとなればさすが絹大国,世界的傑作を生み出すのに時間はかからなかった。法隆寺四騎獅子狩文錦はその見事な典型であろう(図3)。その模様は,よく言われるようにササン朝ペルシア的であるが,その直接的な影響よりは,むしろ中央アジアの要素が指摘され,空引機と緯錦技術の中国への伝播の担い手について考えさせるものがある。その時,注目されるのが近年の研究で脚光を浴びているソグド人の仕事である。ソグド人は中国錦やペルシア錦を東西に売り込む活発な貿易活動を行っていたが,みずからも錦の生産者であったことが知られるようになった。シェパードD.G. Shepherd とヘニングW.B. Henning共著の論文は,ベルギー,Huyのカトリック大聖堂の所有になる‘対羊文錦’の裏の片隅に記されていた文字が,ソグド語で‘Zandaniji'と解読され,それがその錦の生産地,ブハラ地方の一村を示唆していることを述べた(注9)。ザンダニジ錦は外観上特徴のある印象を与え,類似の錦が他の中世寺院や美術館に見出されるばかりではなく,北コーカサスや敦煙にいたるまで広範囲に見出され,数量的にも少なくないために,その流派形式の試みの論文も出ている(注10)。ここトルフか5世紀半ばにトルファンに達していたことが分かる。普通元年(A.D.520),滑国(エ-33-

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