3.執金剛神像の造立法華堂の四天王とでは文様形態に大きな差があるという(注2)。こうした点を解釈すればつぎのようになろう。つまり執金剛神がまず先に制作され,これをもとに四天王が制作されたと考られるのではなかろうか。つまり,最初に制作されるから初発性や古様がみられるのは当然であり,執金剛神制作の後には作者の技量は習熟し,四天王制作においてより発揮されたと考えられるから,執金隋神には緊張感あるかたさがみられ,四天王にはある種の誇張的表現や手慣れたところがみられるのである。こうした点は執金剛神の制作を経なければ到達しないであろう(注3)。だとすると,執金剛神と戒壇堂四天王が同時期であるとするならば本来一具のものとすべきではなかろうか。とすると両像の関係はいかなるものだったのであろうか。つぎに執金剛神の造立と塑像群の関係について考えてみたい。執金剛神について伝えるもっとも古い文献史料は,「日本霊異記』であるが,その中巻に諾楽京東山有一寺。号曰金鷲。々々優婆塞住斯山寺。故以為字。今成東大寺。未造大寺時。聖武天皇御世。金鷲行者。常住修道。其山寺居一執金剛神摂像芙。(中略)彼放光之執金剛神像。今在東大寺於絹索院北戸而立也。とあり,この『日本霊異記』の説話は古来よりつとに有名で,それによれば平城京の東の山には一山寺があって,金鷲寺と号していたという。金鷲優婆塞がこの山寺に住んでいたためにその名が付いた。いまは東大寺かできたがそれ以前の聖武天皇の治世,金鷲行者は常に修道しており,その山寺には塑造の執金剛神があった。(中略)その光を放つ執金剛神は,いま絹索院の北戸にたっているとある。また『東大寺要録』巻二の縁起章第二には又古老博云。聖武天皇瞭望東山。紫雲舞空徐覆殿上。天皇異之遣勅使。尋山之慮有童行者。於執金剛神前誦花厳経。勅使慰喩。問由緒。行者陳云。此度欲建伽藍由之天皇立東大寺。云々とあり,これによれば東山にいる童行者が執金剛神の前で花厳経を誦していたという。これは古老の言い伝えでそのまま歴史的事実とは認められないが,執金剛神の前で花厳経を読経したという表現は示唆に富む。つまり東大寺成立以前には一山寺が存在し-435-
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