ていたことは先の『日本霊異記』の記述に共通している。東大寺が建立される以前にこの地には一寺院がすでに存在していて,そこには金鷲行者なるものがいて,しかもその寺には執金剛神が中心となっていたと解することができよう。執金剛神の信仰は経典のうえでは多く説かれるか実際の作例となるとほとんど確認されていない。執金剛神は主に仏・菩薩の守護者として門の左右に阿形.n牛形として対になって二体でつくられることが多く,その場合金剛力士と呼ばれる。一方執金剛神単独の造立ははとんどなく,むしろ東大寺の執金剛神は珍しい例である。しかしながら弘仁年間(810■828年)成立の『日本霊異記』においてすでに執金剛神が東大寺成立以前に本尊として信仰されていたことを伝えているのはきわめて信憑性のある事実として認められるのではなかろうか。それでは執金剛神が本尊となるようなことかあるのか考えてみたい。執金剛神とその他の諸像については経典の上でつぎのような例かある。唐の長安三年(703)に義浄によって新訳された『金光明最勝王経』の巻第七には如意宝珠品があってそれには,如意宝珠の陀羅尼を唱えると一切の災厄は遠ざかり,諸悪雷電は遮えぎ止まるとされると説かれる。その中には観自在菩薩や,執金剛秘密主菩薩や梵天王・帝釈天王,多聞天王・持国天王・増長天王・広目天王がそれぞれに呪を唱える記述がある(注4)。かつて田中豊蔵氏はここでは観自在菩藷としか記されず不空羅索観音とは出てきていないことからこれを否定的にあつかい,法華堂諸像の思想的典拠とはしなかった(注5)。これに対して浅井和春氏はこの経典を法華堂諸仏造立の宗教的背景とした(注6)。つまり不空絹索の名称が出てこなくとも現在の不空覇索観音が合掌した掌の中に如意宝珠を挟んでいるところから如意宝珠品の影響を積極的にとらえ,加えて天平年間には『金光明最勝王経』が流布したことを歴史的背景としてこの経典を典拠としたのであった。確かに当時,国によって『金光明最勝王経』が流布され,その信仰が盛んであったという背景を考慮すれば十分に認められよう。しかしながら現在の法華堂の本尊不空絹索観音は塑像の執金剛神と比較するとき像高が著しく大きすぎて,作風の上からも同一時期にできたとは考えられない。しかもこれまでの論者は先の『日本霊異記』のなかで執金剛神が本淳像として扱われていることについてはあまり考慮はしなかったのである。私はこの早い時期からの伝承を考慮し,さらに作風の上での共通性を鑑みれば執金剛神・日光月光(梵天・帝釈天)•四天王を一具のものと認めたいのである。-436-
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