Und ach, was meinen Kummer noch viel bitterer macht, Ist, daB du nicht einmal ahnen magst, wie mir urns Herze ist 1 1916年初頭の作品29点を概観すると,作品1から10(小人形4■ 6を除く)は聖書19は抽象的なフォルムを中心としながらもミニアチュールという語を題名にもつもので1916/18の「エマ」と関連するとみても不当ではないかもしれない。つづく漢武帝の約30点の作品が世界の開始や終末,また危機や苦悩,愛に関係する形象を探りつつ,徒労妾辛苦終言君不知の黙示録あるいは詩篇的なテクストに対応するような具象的フォルムをもち,13からが多く(13, 16, 17)(注7),20から26は王僧揺と漢武帝の中国の詩,27から29が小風景となる。つまりミニアチュールという題に関連する抽象的なフォルムをはさんで,聖書的世界と東方的文学に関する造形という,3つの作品群が明確に形成されているといえよう。13から19の作品は本来,生成の混沌を前にする太陽を主題としていると思われるから,旧約聖書の原初的なモティーフと対応している。事実,1916/19(この作品も切断・再結合が行われているが,とくに画面の3分の2の主要部分)は宮城県美術館の1916/7にきわめて近い。他方,この作品群が太陽をモティーフとしているのに呼応するように,王僧襦の詩は月で始まる。またこの詩が女性の恋愛感情を詠う点著名な「秋風の辞」はハイルマンによって「Ruderlied舟歌」と訳されている一秋風が吹き起こり,白雲が空を飛ぶ秋景色のなかを河を渡る。鼓(Trommel)をならす舟歌は,歓喜や青春につづく苦悩や老いを告げてやまない。この詩に現れる河,舟や鼓といったモティーフか老いや死を含意する点で,われわれは晩年のクレー作品の同じモティーフを想起せざるをえないが,それは速断にすぎよう。とはいえ,1916年初頭のひとつの小さな円環を構成していることは指摘しておきたい。言い換えればそれは,言語とフォルムというシンタグマ的関心に導かれながら,挿絵的具象性,抽象的フォルム,文字による意味伝達という3つの位相の推移として提示されている。われわれは同時にここで,そうしたシンタグマ的関心が西洋(『詩篇』を考えると中近東というべきだが)から東洋という地理的空間に転移していることを指摘しておきたい。今日ひろく認められている記号論的概念を援用して言語テクストと形象の関連を直列的近似的に追究する関心をシンタグマ(連辞)的と呼ぶとすれば西洋と東洋に-448-(以上クレー1916/22)
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