鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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確認されており,この形式自身の伝播の可能性があること,一方,師子吼形B形式の太子像は6世紀のある時期から7世紀にかけて流行していたと想像できること等は前述の通りである。その中でも,尚且つ師子吼形A形式の太子像が以前にない優れた造形性をもって現れたのには,時代の誕生像認識が重要な役割を果たしたと考えられる。ここで,暫くこの問題を置いておいて,別のことについて考えることにする。つまり,梁高祖武帝(502-549在位)ゆかりの荊州大明寺伝優填王栴檀像のことである。道宣が麟徳元年(664)に撰した『道宣律師感通録』の有名な一節から入りたいと思うが,まず,いわゆる優填王像について少し触れておきたい。優填王造釈迦栴檀像の説話は,遅くとも4世紀末頃までに訳出されたと言われる『増ー阿含経』や,梁宝唱(6世紀初頸に活躍)の『経律異相』(516頃),唐道宣(595-667)撰『集神州三賓感通録』などの記録がある。それらの記事の伝えるイメージは決して統一されているとは言えず,真偽弁じ難く,諸説を許すところがあるのは周知のごとくである。優填王造像の説話を表していると言われるガンダーラの石造作品(図7'図8)で,大小2腺の如来形が同じ空間内に作られているのが注目される(注2)。大きい像は,天上から降りてくる真身の繹尊で,小さい像は,優填王の造らせた像であるとされる。図に示した通り,小像(大像もそうだが)が一方は,坐像で,一方は立像の両形式に分かれることも注意したい。坐像は,通肩形で両手を腹前に置く。立像は,写真があまりはっきりしていないので,断言できないが,左手は垂下して衣を掴むか,与願印をしていたであろう。右手は,いわゆる施無畏印か偏担右肩の前段階と考えられる,ヽ--472 図6

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