鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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ヽノヽヽ手を半分袈裟から出す形式を示していると判断してよかろう。栴檀像ではないが,この二つの作品から,優填王が作らせた釈迦像のイメージが窺えるように思われる。立像形式のものはまさに,曾て法顕も記した(波斯匿王の話にされたが)ように,繹尊が,JI、J]利天から帰ってくるや,像は立ち上がり繹淳を迎えた,という説話(注3)をイメージした造形であろう。なお,小さい像の二形式ともガンダーラその他の地方でよく見かける独尊如来形像の基本パターンを示していることは私の贅言を待たない。実物を見ていないので,これ以上の詮索を省き,図だけ転載して,他日の検討を侯ちたい。李老之道を捨てて仏教に帰依した梁高祖武帝はいわゆる優填王像を慕い,八十人にも及ぶ大使者団を遣わして,それを請来させた。「集神州三賓感通録』によれば,像は梁の天窒十年(511)四月五日に揚州に着いた。その後,梁太清三年(549)に武帝が没後,揚州から荊州に迎えられ,大明寺に帰した。模写品が多い,と言う。請米された像がどんな像容なのかは詳かではない。ところで,『道宣律師感通録』では,実は,この荊州大明寺栴檀像は隋文帝崇仏の風潮の中で,皮肉なことに,「漆布」による像容の改変,後にまた復元,といった複雑な/ / -473-図7図8

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