経緯を強いられた事実のあったことが記されている。しかし,ほぼ同じ時期の道宣の前掲『集神州三賓感通録』の中では,なぜか,この改変と復元の経緯について何一つ触れられていない。恐らく道宣も,ある時期までは,巷でそうであったのと同じように,この大明寺栴檀像そのものが既に隋の大興善寺に将来されたと信じ,近日の復元云々は,彼にとっても一つの新知見であったろう。転写の誤りか,文中には理解に苦しむところがあるが,幸いなことに,道世が4年後に撰した『法苑珠林』の中に殆ど同じ記述が残っている。この記事について既に肥田路美と山田磯夫二氏がその解釈を述べている(注4)。肥田氏の論文は,主に玄契請来釈迦像に因む以降の作品について展開されたもので,問題の記事に関する氏の解釈は,細部を除いて,概ね賛成である。しかし,後述するように,山田氏が同記事に出る「漆布」を模刻品興善寺像のこととされる見解には賛同できないのである。事の重大さに鑑みて,長くはなるが,もう一度全文を引用して,そのポイントをまとめておく。なお,伝えられた道宣の文章にあって,戸惑いを招きやすい文字を()で示しておく。又問。荊州前大明寺栴檀像者。云是優填王所造。依博従彼模来将至梁朝。今京師復有。何者是本。答日。大明是其本像。梁高祖崩像米荊渚。至元帝承聖三年周平梁。後収簿国賓皆入北周。其檀像者有僧珍法師。蔵隠房内。多以財物贈遣使人。像遂得停。至陪開皇九年。文祖遣使人柳顧言往迎。寺僧又求像令鎮荊楚。顧是郷人。従之今(令)別刻檀。将往恭旨。当時訪匠得一婆羅門僧。名真達。為造。即今西京大興善寺像是也。亦甚霊異。本像在荊州。僧以漆布漫之。相好不及頁者。(真)本是作佛生来(成)七日之身。今(令)加布漆。乃壮年状(乃与壮年相符。)。故殊絶異(於元)本也。大明本是古佛住虞。霊像不肯北遷故也。近有長沙(妙)義法師。天人冥讃。遂悟開疲。剥除漆布。真(具)容重顕。大動信心。披観霊儀。全(合)檀所作本無補接。光鉄殊異。象(蒙)牙彫刻。卒非人工所成。興善像身ー一乖本。両文章を併せて考えると,ポイントはおおよそ次のようになる。大明寺像は,隋文帝が求める頃(開皇9年,西暦589年)までは,釈迦太子誕生後間もない頃の姿であった。使いに行った使者顧の意思で,婆羅門僧真達による模刻品が作られ,後の興善寺像がそれで,これもなかなか素晴らしい像である。コピー元の「本像」は荊州にあり,-474-
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