(追及を逃れるためか)「漆布」を着せて改変された。改変された後の像は,壮年の,言い換えれば,大人の釈迦如来像となった。改変された大明寺真本像は,道宣,道世らの同時代人義法師という人物が天人の啓発を受けて気づくまで「真容」を見せなかった。その本来の姿が再び人目に触れるようになると,その象牙光践の人工のなす所のない霊儀を見て,とても興善寺像の及ぶところではないことが分かった。これにより,大明寺像と興善寺像を巡って起こったであろう世の中の騒ぎが一件落落した,と。つまり,「漆布」を着せられたのは興善寺像ではなく,コピー元の大明寺「真本」像であるところに,私と山田氏の見解との違いがあるわけである。私の解釈及びこれに基づく後続の関連解釈の当否については,読者の判断に委ねる。しかし,もともと揚州にあり,後に荊州に迎えられた優填王栴檀像が如何なる理由で,子供の釈迦として語られたのか,興味深い記事と言わねばならぬ。いったい,どのような像がここ大明寺に将来されたのか,問いたくもなるが,これは誠に重大な問題であるから,断言を避けたい。中国における優填王像について他にもアプローチがあり得る(注5)が,ここで私見も加えてみたい。ともかく,道宣らの記述による限り,前掲ガンダーラの作品を想起するなら,本来優填王造像の一部としての,小像のほうに似た像が優填王像として認識されていたのではないかと想定するのはさほど的外れではなかろう。この想定に基づいてその姿を復元的に見てみたい。ポイント1,前掲ガンダーラの作品に示したように,優填王の作られた像としてニつの形式がある。その内のどちらかがこれに当てはまるという点。ポイント2'大人の繹迦牟尼,言い換えれば正真正銘の如来像に改造され,半世紀以上にわたっても,その真面目が悟られぬままでいたという点。つまり,子供の相でありながら,通常の如米形としてもおかしくない形式を有するからこそ,改変可能の基盤があり,改変されても容易にばれなかったのであろう。ここにおいても,ポインこれに加えて,時の道宣らに子供の釈迦と連想させる可能なもの,即ちいわゆる誕生仏の三形式(前出)を参考ポイントとして挙げておきたい。結論から言うと,上のポイント1及び2と併せ考えれば,その内の師子吼A形式のものがまず浮かんでくる。これをさておき,『集神州三賓感通録』の中で,道宣は大明寺像には多くの模写品がト1の場合と同じように,坐像と立像の二つの可能性が出てくる。-475-
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