あると記し,その広く伝播された様子を窺わせる。下って,唐会昌3年(843)に撰された段成式の『寺塔記』(注6)にも,大明寺像の血を引いた興善寺像が総章初(668頃)に焼失した後,更なる模刻品らしきものが作られたことが留められている。「今又有栴檀像。」として,そのエ拙なりとされているが,流行の一端が窺える。模倣の遺品が多く残っていていいはずである。確かに,ガンダーラの通肩式に袈裟をまとい,両手を禅定印に結ぶ如来坐像を初彿させる古式の金銅仏が中国で作られていた。いわゆる五胡仏,劉宋元嘉十四年(437)銘金銅仏,北魏和平五年(464)銘金銅仏,同庚□(480または490)銘金銅仏などが確認されている。これらの像は,いずれも5世紀を下らない。道宣らの活躍する肝心な6世紀後半〜7世紀以降の作品から,この形式のものを確認しがたいのは,何を意味するのであろうか。6世紀でもそれほど下らない時期と思われる韓半島の滑石,塑像を含む何点かの作品が存在することを付記しておく。これに対して,右手を肩口まで挙げ,左手は明白ではないが,与願印または衣の端をつかむ形式に表された気になる如来形小金銅仏が存在する。浜松市美術館所蔵の一群の隋代と判断される作品(図9参照)がそれである。これらの像は,図像上,幾つかの興味深い特徴があると思われる。如来形像にしては珍しいひねった腰(注7)'(因に,韓国国立中央博物館には腰をこれらの像と反対の左にひねる統一新羅時代の如来立像が所蔵されている。),ガンダーラ式の通肩の着衣法などがまず目につく。そして,図像上のもっとも童要な特徴は,本体と一鋳の頭光にあると思われる。そ-476-図9
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