鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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の形式は,まず光背の丸いまたは瓢蹴式の形を一旦完成させて,その頂部にさらに突き出るように如米形の一坐像を加えている。光背の区域内に三,五,または七点の化仏を線刻または浮き彫り風に作るのはよく見かける形式だが,この技術的にもより難しく,(材料の)量的にも不経済な異様な形式にためらいを感じるのは私一人だけではないだろう。ここで想起したいのは,問題の大明寺像の光背についての記述である。時の中国仏教界の大権威,仏像についても詳しいはずの道宣をして,「殊異」と特筆させたのは,如何なる光背だったのであろうか。前記のガンダーラ優填王像に見られた二仏構成の要素がここにおいても確認されたのは意味深長と言わねばならぬ。物理的に無限に広げられる(過言?)石材で右饒の儀式に合わせて横へと仏伝を展開していく表現伝統の中のガンダーラ優填王像を,「全檀」という縦空間の材料に移す時に,その並列の二仏が縦に変貌させられる宿命は避けられないと想像したくもなる。もしそうだとすれば,これらの隋代小金銅仏の異様な形式は栴檀像からの再コピーとして見ても,一つの提言としてはそう唐突ではないであろう。あるいは,これらの隋代小金銅仏のコピ一元と想定される「全檀」の大明寺像は,前掲ガンダーラの優填王造像と共に,古くから噂されていた優填王像そのもののイメージを留めていると見ることがてきるかもしれない。研究不足のため,ここで,十分に論述することができないが,強調したいのは,何か道宜らをして,子供の釈迦だと言わせたのかという点である。片方の手を挙げる立像と両手を腹前に置く坐像の両方を目の前に並べていると,バランスが立像のほうに傾く印象を受ける。ここで挙げたいのが,前掲国立慶州博物館所蔵の誕生仏である。ガンダーラの優填王造像の中に見られた小さい立像といま挙げた誕生仏を結ぶ線の延長上に,道宣らが子供の釈迦と見なした大明寺像をおいてみれば,私の結論が見えるノ-477-図10

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