鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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注(1) 『高句麗・百済・新羅三国時代佛教彫刻』韓国国立中央博物館1990年はずである。つまり,問題の大明寺像は慶州博物館所蔵の誕生仏に似たような形式を有すると考えられるのであるが,前記山田氏の文章にご指摘のあった,優填王像を模刻した清涼寺釈迦像(図10)を傍注として挙げておきたい。三.結びさて,本米大明寺優填王像の問題にかかわる記事を,いわゆる誕生仏の問題を考えるべきこの報告書で述べる理由は,いったいどこにあるのか。大明寺優填王像の形式を証明するための材料として,私は慶州博物館所蔵の誕生仏を使った。両者を結ばせたのは,道宣らの問題の記事である。大明寺優填王像の形式を論証する作業はまた,道宣らの脳裏に複数にあったであろう子供の釈迦像の内一つを特定する作業でもある。つまり,大明寺像に子供の釈迦を同感した道宣らが残してくれた記述は,バリエーションがあったであろう優填王像の一形式を示唆しただけではなく,6世紀末から7世紀前半まで活躍していた道宣らの子供の釈迦のイメージを吐露していると私は思うのである。師子吼形A形式を有する慶州博物館蔵誕生仏の諸問題を考える時,当該形式それ自体の伝播のことは勿論,この形式を支持する時代時代の子供の釈迦観とでも言うべきものからのアプローチも重要であることは前述の通りである。曾て存在していた優填王像の造釈迦像における模範的性格についても,ここではただ想定するに止める。問題の記事の出た時期(7世紀半ば頃)と慶州博物館所蔵誕生仏を初めとする一連の像の比定された時代(7世紀)との符合は興味深いと言わねばならぬ。少なくとも,道宣らの活躍時期には,中国大陸でも師子吼形A形式の誕生仏が作られていたと思われる。本報告において問題の記事を特に重要視したい理由は,ここにある。諸般の事情により,つい最近に終わった韓国調査の所見に対する検討をまだ十分に行なっていない。詳しい展開は別の機会に譲ることを記して報告書を終わりたい。(2) 曾て高田修氏が『仏像の起源』という大著の中で,この二作品の内の坐像の方を挙げ,“本圏が必ずしも『増ー阿含経』を所依としたという意味ではなくとも,{専説の疲達経過からすれば,ほぼ同一の疲達段階にあった傭説に基いた”として,様式-478-

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