を指摘している。さて,本研究の元々の動機は,この現象学的なセザンヌ解釈にヒントを得て,いかにセザンヌが,絵画活動を通して,身体と世界の根源的な相関性に関する探究を進めていったかを考察し,同時に,その探究に伴って,画家の主体の在り方が変化を遂げる様子を分析することにあった。しかし,今回の調査の過程で,当初の枠組みを超えて明らかになった問題が二つある。一つは,現象学的な解釈には重要な限界があるということ。もう一つは,モダニズム的なセザンヌ像と,現象学的なセザンヌ像は,無関係な二つの解釈ではなく,実は,同じコインの表裏といったような相補的な関係にあるということである。以下,この二点について,詳しく内容を説明する。現象学的解釈の成果と限界現象学的アプローチがセザンヌ解釈にもたらした成果は大きい。それは,従来の様式的な観点から分析する美術史では汲み取れない,画家の世界経験の領域にまで研究の領域を拡げることに成功した。そして,それは,単に,任意的な現象学の絵画解釈への応用というのではなく,まさに,現象学が哲学として抱えていた問題が,セザンヌにおいても同じように難問として感じられていたという意味で,まさに,適切な解釈の方法であることがわかる。その,現象学とセザンヌの抱えていた問題の共通性は,メルロ=ポンティーを待つまでもなく,ハーバート・リードや,ジョージ・ハミルトン等に既に指摘されているが,さらに,それを裏書きするかのように,昨年,ArtBulletin誌上(9月号)に発表した論文で,ジョエル・アイザックソンが再確認したことでもある。このような哲学上の方法との比較が可能になるのは,セザンヌ自身の手紙や,同時代の証言等によって,彼が絵画を描くという過程において,どのような経験をしたかが,比較的克明に分かっているからであり,現象学的なアプローチをする論者はいずれも,そのような資料に記録されたセザンヌの特異な絵画経験を参照している。中でも,頻繁に引かれるのが,セザンヌ自身の言葉を借りれば,自然から受けた“sensation"を如何に絵画の上に“realiser"するのかという難問である。そして,そのsensationという概念は,セザンヌの手紙を読めば,単に,網膜的な自然の印象にとどまらず,身体全体による世界空間の経験という次元にまで関わる概念であることが分かる。その意味で,セザンヌが印象派までの,近代科学的な主体一客体の二項対立的な知覚か-490-
元のページ ../index.html#500