鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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ら一歩抜けでた認識論的な探究に進んでいたことを,現象学は解明することに成功した。アイザックソンは,そのようなセザンヌの絵画上の探究と,現象学の創始者であるフッサールの哲学上の探究の類似性を,抽象的な思弁上の類似として論じるにとどまらず,マラルメ,デュランティー等の印象派論を土台にし,歴史的現象として論じたことで,過去の現象学的セザンヌ研究と美術史の接点を開拓した。しかし,一方で,アイザックソンを含め,一般に現象学的なセザンヌ解釈が常に見落としているのは,絵画という「表象」が画家の世界経験に対して,どのような関係を持ちえるのかという,単純だが本質的な問題である。これは,フッサールの初期著作,とくに「イデーン」と「論理学研究」を読めば明らかだが,彼の哲学における「経験」と「表象」の関係とセザンヌにおけるそれとの間には,大きな隔たりがある。前者において,「表象」は,「経験」の本質性,純粋性に到達する為に還元されるべき不純物に過ぎないが,後者においては,それこそ,最終的な目標である。フッサールにおいて,経験の純粋性を保証するのは,言語や絵画など,既に公共のものとしてある伝達の手段ではなく,言語以前の,意識内における意識の自明性であり,意識の自分自身に対する内的独白の構造である。それに対して,セザンヌを含め印象派の画家達は,同じように,慣習的な表象を超え,純粋な経験を模索したことに違いはないが,最終的には,フッサールのように,内的独白に沈潜するのではなく,彼らは新しい表象を提示することを目標にしていた。そのような「表象」に対する態度の根本的な違いを見落とすと,絵画を哲学的考察の単なる反映と見なす結果になりかねないし,事実,それが,多くの現象学的なセザンヌ解釈の限界ともなっている。別の言い方をすれば,これまでの現象学的解釈は,常に,画家セザンヌの世界経験の方に焦点を合わせ,その意味で,従来の様式的な美術史には見えなかった次元の問題を前面化するのに大きく貢献をしたが,一方で,その経験をどう表象するかという問題を二次的なものとして扱ってきたと言える。それは,そのまま,フッサールの現象学において「表象」が「経験」に対して二次的で従属的な問題であるという哲学上のヒエラルキーを踏襲しだ恰好になっている。その「表象」の「経験」に対する二次性を見直し,両者の相補的な関係に眼を向けたのが,フッサール的な現象学を乗り越えようとしたメルロ=ポンティーだが,その彼の論にしても,両者は弁証法的な関係によって規定され,我々の身体的存在の根源的な統一性-491-

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