鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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問を抑圧した所で近代主義的なセザンヌ像は成立していると言ってよい。彼自身の手紙,ゾラやピサロなど,セザンヌの制作上の苦闘を実見していた者達の証言から明らかなのは,セザンヌにおいて,絵画の自律性の認識と,画家としての自我の危機は,表裏一体の関係にあったということである。近代主義的なセザンヌ解釈の限界は,まさにその一面だけを捉え,ドニやベルナール,そしてフライ等に端を発する「絵画の純粋化」という単線的な歴史観からのみセザンヌを把握しようとした点にあると言えるだろう。現象学的欲望と絵画表象の自律性では,同じように,絵画表象の論理の自律性を認識しながら,それが表現主体としての自我の危機へと直結しなかったドニやベルナール等とセザンヌとは,どういう点で違っていたのだろうか。それは,とりもなおさず,後者には,自己とそれをとりまく世界(自然)との根源的な関係を捉えようとする現象学的な欲望が絵画表現の原動力としてあったのに対し,前者は,絵画から外部の自然や世界を遮断し,魂の世界にのみその根拠を求めたことに認められる。事実,先述したドニの有名な近代主義を代表する文句は,一方で,形態と色彩による調和が,「画家の魂」や「美」を体現する限りにおいて芸術たりうるという論理によって支えられている。つまり,絵画が馬や裸婦,或いは何らかの物語という外部からの借り物に依存することを止めるということは,同時に,絵画の徹底した内面化,精神への帰属へと直結するのである。そのような絵画の主観化は,ドニのみならず,当時の象徴主義一般にも共通している。例えば,当時の代表的な批評家であるアルベール・オーリエは,「イデイズム」と「イデアリズム」を区別し,前者を形態と色彩による精神の体現,後者を人工的な記号操作によるイデアの表現であると定義し,前者を真の象徴主義と主張している。つまり,当時の象徴主義の理論においては,彼らの考える新しい「象徴」という概念と,伝統的な「アレゴリー」の概念が明確な対立項として捉えられていて,アレゴリーのように,人工的な約束事によって規定されている記号形式を微底的に否定したのである。言いかえれば,象徴主義者達の理想は,絵画の形式とそれによって表現される美や魂が,有機的に一体化された状態であり,作品の美的価値を感じとる為に作品自体以外の何者をも参照する必要がない,という十全かつ完結した絵画経験だったのである。-494-

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