鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
505/588

近代主義の標榜する「絵画の自律性」と,通俗的に理解されている象徴主義の概念とは,表面的には対立するもののように受け取られがちであるが,今回の調査によって,セザンヌ研究の一つの副産物として明らかになったのは,むしろ,象徴主義の主張する新しい「象徴」の概念こそ,近代主義を育む母体となっていたということである。ドニ,ベルナール,ゴーギャンから,カンディンスキー,モンドリアンまで,その象徴概念は,近代主義の美学を支え続けることになる。さて,セザンヌにおける大いなる難問は,絵画という独自の論理を持った表象のシステムが,象徴主義のように,「魂」や「美」という内面化され,抽象化された価値に依存するのでもなく,また,印象主義のように,外部に客観的データとして存在する自然に自明の根拠を持つわけでもない,言ってみれば自らの根を失ったシステムとなってしまったということである。それは,自意識にとっても,自然にとっても,ある回収不可能な外部として顕現しているように見える。その「外部性」こそ,セザンヌをして,繰り返し自らの不能性への呪誼を吐かせたものであり,実際の作品制作に当たって,終わりのない反復へと彼を導いたものである。従って,セザンヌ晩年に顕著になる作品の連作性(例えば,サント・ヴィクトワー}レ山やビベミュスの石切り場のシリーズ)は,そのまま,セザンヌと,独自の論理を持つ絵画のシステムの格闘の記録となっていると言っていい。多くのキャンバスが署名を持たず,しかも塗り残しを含む未完成作であることは,そのことを物語っている。例えば,画商ヴォワールの肖像の手の部分に残るほんの僅かな塗り残しについてのエピソード(ヴォワールが,何故,そこに色を置いて作品を完成してしまわないのかと,セザンヌに問いただしたところ,画家は,そこにもし間違った色を置いたらすべてが台無しになってしまうと言って,安易な解決を拒んだ。)には,まさに,自らの意識によっては予測不可能な色彩の画面上の呼応と取り組むセザンヌの姿がうかがえる。また,晩年の水彩画においては,画面上に置かれた色彩の多様な相互反応,それに画面自体の白との関係など,そういった絵画のシステムが内包する多元的な表現の可能性を最大限に生かそうという手探りの実験が繰り返され,時には,描かれている対象のイメージが解体され,抽象画と見紛うものが多く現れる。従って,セザンヌの作品の連作性は,予めあるプログラムに従って制作されたモネの連作などとは全く違ったロジックによって支配されている。それは,むしろ,絵画-495-

元のページ  ../index.html#505

このブックを見る