鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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⑯ 正保国絵図と御用絵師について研究者:大阪芸術大学教養課程教授田中敏雄国絵図は国家が政治・軍事・経済をおこなう上で重要なものであった。国絵図は我国においても奈良時代から存在し,『日本書紀』の大化2年(646)8月に「宜しく国々の堺を観て,或いは書し或いは図し,持ち来たりて示し奉れ。国県の名は,米む時に将に定めむ」とあり,図様でもあらわされていたのである。そして,天平10年(738)には「天下の諸国をして,国郡の図を造りて,進らしむ」の聖武天皇の詔が下された。まさに,聖武天皇は東大寺建立,慮舎那仏の造立,国絵図の調進と天皇中心の中央集権国家成立への道を進んだのである。近世に入ってからも時の権力者は国絵図の収拾が行われた。天正19年(1591)には豊臣秀吉は各国大名に御前帳と郡絵図の提出を求めている。その郡絵図は川村博忠氏によると,ただ単に線を引いて地形のみを表わした絵図でなく,海・山・川・里・寺社・道筋など事物を客観的に詳細に描写,図示したものと考察されている。郡絵図はより絵画的な表現がなされていたと思われる。徳川家康が政権を握り,徳川幕府の幕藩体制維持のためにも国絵図の調進がおこなわれた。各時期によって細かな調進理由や仕様は異なるが,慶長・元和・寛永・正保・元禄・天保の年間におこなわれている。今回の研究では正保元年(1644)12月に国絵図の調進を命じた正保国絵図を取り上げてみることにした。川村博忠氏によると正保国絵図の調進は幕府老中であった土井利勝が徳川将軍家を頂点にしたより強固な幕藩体制の確立をめざす目的で,将軍と幕府の威信を諸大名に示すためにとるべき献策として書き残し,徳川家光が正保元年12月に諸国の大名に国絵図と郷帳と城絵図の提出を命じて成立したのである。正保国絵図では国絵図の作成には細かな基準を設け,国絵図の様式の全国的な統一を図った。また作図にあたっては詳細な絵図基準にもとづくのであるが,その条目の終りのところに,絵図に山木の書きよう,色のことー.海,川,水色書きようのことー.郷村そのほか,絵どりに胡粉入れ申すまじきこととあり,線のみによる地形図的なものでなく,色彩豊かな絵画的な国絵図の作製を求めたとともに,この国絵図が幕府文庫に収納して保存しておく理由からか,剥落の-498-

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