鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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かき恐れのある胡粉の使用を禁じてもいる。以上のように正保国絵図は統一した様式で図絵を描くこと,色彩を用いることを要件としている。幕府から国絵図の提出を求められた各藩にあってはどのように対処したのか種々の問題で興味のあることであるか,この研究では国絵図がどのようにして作製され,誰れが描いたかに焦点をあてて考えてみたい。正保国絵図の事業主は徳川幕府であるが,実際に事務を掌握し,各藩に絵図制作を指導していたのは大目付の井上筑後守政重と宮城越前守和甫であった。各藩にあっては絵図を制作するにあたって以前に制作した絵図を参考に制作するところもあれば新たに制作しなければならない藩もあった。どちらにしろ,絵図制作には基準があり,その基準を満たすために各藩は国許で下絵図を作成し,大目付井上政重へ提出して内見を仰いだのである。国絵図制作の過程の一例として土佐藩の例を『山内家史料』より見てみると,「正保元甲申年十一月九日従二御老中_忠豊公江御切紙を以御用之儀候間御留守居中井上筑後守殿宮城越前守殿御差図次第御両所江可レ被遣旨被二仰越_同十六日御評定場江柴田覺右衛門罷出御書付二通御渡御口上被二仰渡ー候趣は先年何も国国之絵図被二指上_候得共相違之所茂有レ之候間今度被レ入二御念ー来年中御差上可レ被レ成候旨被二仰渡_之由この史料によると正保元年12月の正式な国絵図調進の命以前に内々に各藩主宛に国絵図調進の要請があり,その理由として,多分元和・寛永期に提出した国絵図と現在の状況とでは相違があるので,今度は入念な国絵図を差し出すようにとの要請であった。また次に,「御国之絵図御奉行衆藷冬御好之ことくさつと仕懸二御目_候へ共御国へ遣し申候者念を入書せ可レ申由にて絵の具又は山川書様之次第壼枚紙二御本御出し被レ成候て御城惣構並海山書様絵図戴枚二かかせ筑後殿へ懸二御目ー候ヘハ一段能出来仕候由被レ仰候間御奉行衆御このミ之様子覚書いたし六右衛門に相渡申候松平長門守殿鍋嶋信濃殿なとの御留守居は御国之様子存たるものと絵書を御指上せ被レ成御歯地にて御奉行衆へ召連参折折絵図懸二御目一御このミのことく書認可レ然由御主主へ致二言上候由申候(後略)」とある。土佐藩では奉行衆の気に入るように入念に書くことを由とし,絵の具や山川の書様や御城の惣構や海山の書様の見本を奉行の井上政重に見せたところ一段とよく也」-499-

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