鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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絵図を描いたと思われる誂絵師や清書をした絵師の名が記載されていないのでどのような絵師であったか興味のあるところである。次に山形県の米沢藩の例を取り上げてみたい。『三重年表』(『鶴城叢書上』)によると,正保二年二月二日今度御領分並御絵図御書上ノ命アリ右御用掛六人年寄冨所三郎兵衛元重関原三右衛門城秀画工目賀多洞雲二仰付ラレ御使番林邊ハ右エ門是房栃本弥次右エ門信親同断正保二年八月廿八日御国絵図出来ニッキ冨所関原目賀多持参江戸へ登り井上筑後守へ差出シ九月廿八日此三人江戸ヲ立下ル米沢藩の国絵図制作の記録には目賀多洞雲という画工が国絵図を描いたことが知られる。この目賀多洞雲については『古画備考』の“狩野門人譜”に目賀田幽雲(近江国住人,目賀田摂津守後商,仕二上杉家一,孝信門人,東雲信明子探幽門人幽雲守如始称二七十部一幽雲子,探幽門人)東雲信明,(近江国住人孝信門人)目賀田摂津守後,上杉景勝家臣とあり,洞雲そのもの、名はみられないが,江戸時代初期には目賀田家には東雲・幽雲という画家がいて,上杉家に仕えていた。洞雲は東雲と音が似ているから東雲と同一人かも知れない。又,探幽の弟子とされる幽雲の書き誤かも知れない。東雲は狩野孝信の弟子とされ,また,幽雲は狩野探幽の弟子とされ両人とも狩野派の画人である。米沢藩の国絵図を描いた目賀田洞雲は東雲が幽雲と同一人でない場合でも目賀田家の画人で狩野派の画家であったろう。今回の調査で各藩の史料を調べてみたが,国絵図を描いた画家の名が見られた史料は少ない。国絵図を制作するにあたって下絵図を描く絵師と清書をした絵師は各藩すべてではないにしろ同一人でないことが理解できた。下絵図制作にあたっては各藩は自前の絵師に描かせ,清書では土佐藩の例のように幕府の斡旋の絵師に描かせたものと思われる。『国絵図』(川村博忠著)の中でも国絵図清書について「正保度は次回の元禄度のように特定の幕府御用絵師によって一手に清書されたわけではなかったもの-501-

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