の,幕府は各絵図元へ清絵図仕立に通じた狩野派絵師を推薦したようである。会津藩では幕府の斡旋により成田市之丞という絵師に清書を依頼しており,広島藩では安芸・備後両国の絵図清書を江戸の絵師八田助左衛門に依頼している。(中略)萩藩でも周防・長門両国の国絵図をこの八田助左衛門に依頼して清書している。」。ここで記述されている成田市之丞や八田助左衛門については知るところがないが,多分江戸の幕府御用絵師を勤めていた狩野家の弟子の人達であったと思われる。また川村氏は正保以前の元和・寛永度の国絵図制作にあたって「広島藩では安芸国絵図の清書を控図ともに狩野派の絵師狩野理兵衛に依頼したことも知られる。」としている。この狩野理兵衛は『隔箕記』にも登場して,鳳林承章とも交流をもった狩野派の画家である。後に触れるが鳳林承章の領知についての絵図の制作をつとめた伊藤長兵衛と肉親の関係であり,伊藤長兵衛が鳳林承章の求めで絵図制作をおこなったのも絵図制作の経験のある狩野理兵衛との関係によるものと思われる。正保度の国絵図の清書については幕府の斡旋により当時幕府の御用絵師であった狩野家の弟子筋の人が国絵図清書にたづさわっていたが,後の元禄度の国絵図清書は狩野良信によって描かれた。川村氏は「国絵図清書が狩野良信によって依頼されていないのは御三家,幕府重職および有力大名らの受持分である。」と述べている。御三家・有力大名等は幕府の御用絵師と近い関係の絵師達が各藩の御用絵師となっている関係から良信にたのまずとも描けたものと推測される。因に,狩野良信は根岸御行松狩野家で幕府の表絵師を勤めた家柄で,狩野一翁重信を祖として,一翁重信と続く家系である。「古画備考』の良信の項に“今江戸書図方トナル”と記載されている。また,『東洋美術大観』所収の由緒書には“元禄年中御改御国絵御用相勤”とあり,幕府御用の絵図は狩野良信の専らとするところであった。この狩野良信の祖父にあたる一翁重信は内膳と称し,「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)や「豊国祭礼図」(豊国神社蔵)を描いた画家として著名である。狩野良信は『東洋美術大観』に“正徳六申年四月七日病死仕候。”とあり,また,『古画備考』には“卒年八十七”と記され,二つの史料から狩野良信の生歿年は寛永7年(1630)の生まれで,正徳6年(1716)に歿している。この根岸御行松家の狩野良信より八代後の狩野晏川貴信(1809■1892)は『東洋美術大観」の晏川貴信の項の天保8年(1837)の条に“諸国御国絵図御用相勤”と記されている。元禄度の国絵図御用は狩野良信であり,次におこなわれた天保一渓重良内膳良信-502-
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