度の国絵図調進の時の絵図御用は狩野貴信が担当していることから幕府御用絵師の中でもこの根岸御行松狩野家が絵図御用を専らとし,根岸御行松家の家職となっていた。国絵図の清書にあたっては徳川幕府の御用絵師を勤めた狩野家の息のか、った絵師によることが多いが,国元で下絵図を描いた絵師についてはもう少し多くの史料を調査しなければどのような絵師がその仕事にたづさわったか不明な点が多い。米沢藩のように目賀田洞雲という上杉家お抱えの狩野派の絵師もいれば,広島藩のように町絵師を雇う藩もあれば,土佐藩のように絵図師と思われる誂絵師に描かせる藩もあった。正保度の国絵図ではないが,元禄度の国絵図の下絵図制作にあたっては,“絵師之義壱人ハ三右衛門差越可申候,御足軽之内二而絵書候者両人有之候間,此者共二書セ見候而,何とそ彼者共二て間合セ候様二可仕候,”(『信濃国絵図仕立帳』)とあり,絵ごころのある足軽を採用してすませようとした藩もある。大名の領地の絵図でなく,寺杜の領地の絵図について『隔冥記』では正保二年九月十六日条伊藤長兵衛を呼び,吉権同道して,山上に登る。嘗寺領内の山の書図頼むなり。今度公儀より,諸国指図,方境の図出来。その故,裳山指図の用意。正保二年十月四日今度郷廻りの奉行,西京に居るの由。北山寺内の封彊井名所十境・名石等書付け並びに境内の畿図,吉権を使として,予両奉行に書状を遣わす,西京に遣わすなり。と記されている。鳳林承章の鹿苑寺領における絵図の制作過程である。画家の伊藤長兵衛は鳳林承章のもとに足しげくかよっている画家で,狩野探幽の手引きで禁裏の障壁画も描いた狩野派の画家である。この鳳林承章の鹿苑寺領の絵図に関しては山上に登って山の画面を描いたり,境内図を描いたりして,真景図的な絵図を描いている。以上数例の正保度の国絵図制作に関わった絵師の人たちをみてきたが,この正保度の国絵図の調進の命のあった正保元年(1644)頃に各藩にお抱え絵師が存在していたかどうか。もしお抱え絵師が存在していれば米沢藩のように目賀田洞雲のような絵師が国絵図制作に関わるであろう。しかし少しばかりの史料であるがお抱え絵師が国絵図制作に携っている例は少ないように思われる。それは絵画制作ではなく絵図制作だからであろうか。幕府の御用絵師を頂点として,各藩にお抱え絵師が仕え,幕藩体制-503-
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